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#44 「愛」強い人は弱さも知っている、愛されなくても幸せになれる

私たちは、誰かを愛したいと思えば思うほど、
その愛情、じょうに導かれ、そのために苦しみ、
そしてじょうを恐れます

だから、その苦しみ、恐れ、心配から抜け出すには
愛情から離れなさいと、仏教では教えられています

しかしこれは、誰かと愛情を育んでいくことがダメ、
という意味ではありません

自分がしなければいけないことを、きちんとする人、
これは愛情に振り回されません
むしろ、本当の愛をすることができるということです

本当に強い人は、自分の弱さを観ることを
知っています

他の人と比較して、負けない、劣らない、
それを求めるのが、強さではないです

若い時はそれで、ぐいぐい行けるかもしれません
しかし、ふと観ると、いつも不安で、
自分の弱い姿を見せられないと、
重い荷物を背負う自分が観えませんでしょうか?

そこから、負けない、傷つきたくないと、
欲求不満にもなっていきます
これが私たちの心がすることです

誰しもが、何かしらの不満を抱えています
しかしその不満を、自分の外で抱える限り、
それはなにも変わらないです

そして、自分の外に刺激を求め、探すなら、
ずっとその刺激に追われて終わります

自分の外で欲求不満を続ける限り、
それはストレスになるだけでなにも変わりません
ただただ悪循環におちいるだけです

しかし、それを自分の中に向けた時、
自分の心では変化が起きます
自分が変わっていきます

タバコやお酒、薬やギャンブルなどなど、
これらが中毒になるのは、刺激です

恋愛においてもそうですね
やはり、最初の緊張感や刺激、これだけ観れば、
他の刺激となんら大差無いです

それを育んで、刺激を学びに変えて、
より深い関係にしていかないと、愛にはならないはずです

「あらゆるものの中心に愛を置いて…」
という名言がありますが、
愛というものに、それが最高の幸福だと定義すると、
もし愛されなかったら、もし愛さなかったら、
これは幸福ではないのでしょうか?

キリスト教から入って来たこの「愛」
これにはものすごく深い哲学的な考えが入っています
ですが、これをかんたんに、
自分が好きな想いを「愛」として括ってしまい、
それがすべてだとしてしまう風潮ふうちょうが見られます

例えば、アイドルなどもそうです
人を愛するという疑似的ぎじてきな体験を与え、それを売りお金に換えている
そしてそれを買う側は、それが「愛」だと勘違いをし、
様々なプレゼントを贈ったり、商品を買ったりします
そこにはファンの「愛」が詰まっています

けれどもその「愛」と対等な「愛」を返さなかったら、
これが恨みや怒りに変わるわけです
そして、最もやってはいけない行動に駆り立てたりします
そうしたことが、テレビや芸能の世界だけでなく、
一般の間でも、実際に起きているわけです

このように、
「自分が好きだ想うものに対して、同じように好きだと自分に返せ」
という「愛」と語られていますが、これはエゴでしかない

「愛」はとても素晴らしい感情です
人間にしかない感情です

ですが、そこに執着しゅうじゃくし過ぎてはいけないです

ですからやはり、仏教の根幹である
「諸々の悪しき事を遠ざけ、諸々の善を成し、自らの心を清らかに保つ」
これが必要だと思います

諸悪莫作しょあくまくさ
衆善奉行しゅぜんぶぎょう
自浄其意じじょうごい
是諸仏教ぜしょぶっきょう
→(これが仏教)

「愛」に執着しゅうじゃくするなというのは、確かにキツく聞こえると思います
ですがそこに執着しゅうじゃくすると、残された人生において本質を見失います

人間にとって幸せというのは、心の幸福だと思います
つまり心の平安です
どんなことがあっても波立たない、どっしりと構えていられる、
そういった幸せです

上に記した言葉は、お釈迦様だけが言った言葉ではないです
お釈迦様よりもずっと前からの、言葉になります

すごくシンプルではありますが、これをつらぬく、
これに凝縮ぎょうしゅくされていると思います


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