マガジンのカバー画像

ひろがるしゃしん

28
架空の書籍の目次だけをつくってみたら実際に出版することになりました。写真についての考え方や生き方、はたらき方についての本になります。
運営しているクリエイター

記事一覧

もしも写真の本をつくるなら

長文を書くのが苦手なので、架空の本の目次だけ考えてみました。 はじめに1.カメラ- スマホでじゅうぶん - 10枚しか撮れないカメラがある - フィルムとデジタルの使い分け 2.視点- 世界を見つけるということ - 写真は言葉 - こうあってほしい、という祈り - シャッターは愛、ゆえに残酷 - 写真の罪(恣意性とのジレンマ) - ロケハンはしない(決めないということ) - すべての光景が写真になる - みんなと同じものを撮るほうが難しい - 横目の風景 - 想像の跳躍力

見つめるということ、見つめられるということ。

みなさんはどんな時に写真を撮りますか? きっといろいろなきっかけがあるはずです。例えば、心が動いたとき、素敵だな、好きだなと思ったとき...? もしかしたら人はそんなときにカメラを向けて「写す」のかもしれません。 そう考えてみれば反対に「写される」ということは、それほど「写す」人から大切に思われている、とも言えます。多くの場合、「写す」と「写される」は、その関係の中でおこなわれているのではないでしょうか。 そして、それは同じ時代を生きている者同士でしかできないことでもあり

猫になりたい

写真において、その人らしさを形成する要素として、大きく分けて、視点、距離感、色彩の三つがあると考えています。撮影者がそれぞれをどのように定義し、どれくらい一貫性を持って取り組むかが、その人らしい写真の輪郭を描くひとつの秘密になる気がしています。 このうちの「距離感」については以前、『主観と客観を超えた眼差し、その距離感』で自分の考え方に触れました。これは”ゴースト”という目には見えない、未来に死んだであろう自分自身を架空の匿名的な存在に見立て、その目線に立って撮影することに

写真は言葉、写真は時間

私は一体何を撮っているのだろう? そんなことを考えた経験はありませんか。もし答えがあるとして、それは人それぞれ、きっと多様なものになると思います。というより、なんだっていいのかもしれません。それでもあえて問い続け、何かを導き出そうとする行為は決して無駄ではないはずです。 こんなワークショップを考えました。 例えば「写真を《言葉》にしてみよう」という思考のレッスンをしてみます。その後、反対に「言葉を写真にしてみよう」を、そして最後に「《時間》を言葉にして、それを写真にしてみ

100年後に見つけてもらう

なんで撮ってるんだろうな、つまらない写真だな、こんなことしても意味ないな、というときがたまにあります。みなさんにもそういう経験はありますか? インターネットとSNSの発展によって、写真を発表する機会がとても多くなったと思います。写真を撮ってSNSで発表することが当たり前になってずいぶん経ちました。それによって、これまで知られることがなかったかもしれない写真が世界中に届くようにもなりました。自分もそうやって、見たり見てもらったり、たくさんの機会を得てきた一人です。 一方で、

世界を見つけるということ

「木洩れ陽」が好きでよく撮ります。美しいですよね。木々の隙間から光が射して映し出されたそれ。風に揺れるとまるで小さな子供たちがダンスしているようにも見えます。この言葉を生み出した豊かな感性に憧れます。ところで英語では「木洩れ陽」を一言で表せられないそうです。 それは ”sunlight filters through the trees” のようなセンテンスで表現されるそうです。同じように日本語でも一言で表せられない現象があります。たとえば ”Petrichor(ペトリコー

遠い記憶のあつまり

はるか遠くの星の光が地球に届くまでに何年もかかるという話を知っていますか? わたしたちが今まさに見ている光が生まれたのは、実はずっと昔であるというものです。一体どういうことなのかをうまく説明するのはとても難しいです。ところが、なぜか直感的にはそのわけが分かる気もしています。 写真に写るものごとは撮影したその瞬間に過去のそれになります。しかし、それを見るという行為は必ず今よりも未来に起こります。つまり、写っているものごとはもう現実には存在していません。当たり前の

シャッターは愛、ゆえに残酷

シャッターは愛の告白だと思いませんか? その世界への、その時間への、その人への。しかし、ゆえに等しく残酷でもあるのです。 わたしたちはふだん興味のあるものや好きなものだけを撮っています。そうでないものにカメラを向けることはあまりないはずです。とくに意図がなければ日常におけるほとんどの場合、写真とはそういうものですよね。その意味でシャッターはわかりやすい愛情表現だったりします。切るたびに「好きです」と告白しているような... しかし、同時にある事実にも気づくのです。例えば、

幻の日々

たとえば、あなたは赤ちゃんだった頃のことをはっきりと覚えていますか? 遠い夏の日に友だちと遊んだことを。一年前の今日のことを。そして、先週どこで何をしていたかを。昨日、誰と一緒に過ごしていたかを。ずっと昔のことだけではなく、つい最近のことでさえ忘れていたりしてませんか? 薄れゆく記憶がいつの間にか幻のように感じることがあります。そういえばあれはほんとうにあったことなのだろうか、と。どんなに大切な思い出もすべてを覚えつづけていくのはそう簡単ではありません。たとえ覚えていても気

写真は言葉

新しい言葉を知ったとき見える世界が変わることってありますよね。例えば、イヌイットは4つも「雪」を表す言葉を持っているそうです(諸説あり)。その言葉を知れば彼らと同じ物が見えるようになるかもしれません。つまり、言葉は世界に対する視野を広げ解像度を上げてくれるものなんですね。 また、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』では、時間の概念を持たない異星人の言語を理解した主人公がそれと同じ能力を得るようになります(ややネタバレ🙏)。つまり、時間さえ超えて世界を認識することがで

ほんとうに欲しいものは手に入らない

絵が描けたらよかったし歌がうまかったらよかった。足が速くて背が高かったらよかった。初恋が実ればよかったし誰にも裏切られなかったらよかった。人には人それぞれの祈りや願いがあるのだと思う。 どうしても叶えられなかったことや手に入らなかったもの、全部がうまくいく夢をたまに見ます。それが夢だと気づいたとき、まだ目を覚ましたくなくてわざと起きないようにしたり... もう少し、もう少しだけ、と。それでも覚めてしまったときは瞳を閉じたまま涙が溢れていくのが分かって、とてつもない哀しみに襲

言葉にすることをあきらめない

心のどこかで何か違うと感じながらとりあえず身近にある言葉を発してみたり、使いこなせない流行りの言葉に気持ちを託してみたり、それでもうまく言葉にできずに黙り込んでしまったり、そういうことはありませんか? ものすごいスピードで過ぎていく毎日のなかで、新しい言葉がどんどん生まれています。その意味をゆっくりと消化する暇もないまま、反対に長く使ってきたはずの言葉の意味でさえ変わっていることに気づいて戸惑うときもあります。果たして自分はほんとうに素直な感情を、気持ちを、想いをそれに相応

主観と客観を超えた眼差し、その距離感

いつから写真を? と聞かれたとき、決まってある一枚の写真を思い出します。それは生まれ育った家の勝手口に息子が静かに佇んでいるというものです。その姿を撮ろうとしたとき、直感的に「あれは『私』だ」と感じたのです。自分もまた幼かった頃、まさしくあの場所に座っていたことを思い出したからです。子供をまるで自分の生まれ変わりのように感じたそのとき、記憶の奥底に眠っていた光景が一気に目を覚ましました。そして、その光景をファインダー越しに見つけたとき、言葉にし難い奇妙な感覚に襲われたのです。

#もしもSNSがなかったら

いきなりですが、みなさんはこのインスタグラムのアカウントをご存知ですか? どうやら同じ人が撮った写真ではなく、いろんな人が撮った写真を集めているようです。 ロケーションが同じなのは観光であればよくあることですが、不思議なのは構図や色合いまでもが似ていること。ここで見られる写真の技術はとても高いと思います。写真としてとても綺麗。もしかしたら一枚だけを見ればそれほど気にならなかったかもしれません。しかし、それゆえにその共通性の奇妙さがより浮き彫りになっています。これはインスタで