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み言葉の考察② 「私たちの家庭は真の愛を中心として」の【真の愛】を考察する

文鮮明先生が私達統一教会員に遺した「家庭盟誓」。その八節すべての最初に「天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として」と始まっています。この【真の愛】とは、どのような愛なのでしょうか。

文鮮明先生自叙伝(平和を愛する世界人として) 
第五章 真の家庭が真の人間を完成するー結婚と愛
より抜粋
男女がいくら愛し合っても、幸福な家庭を完成させるには、必ず家庭の囲いとなる父母がいて、大切にする子供がいなければなりません。家庭という囲いがしっかりしているとき、その家庭は初めて幸福になります。いくら大きな社会的成功を収めたとしても、家庭の囲いが崩れてしまえば不幸になってしまいます。
愛の土台となるのは、お互いがお互いのためにすべてのものを捧げる犠牲の心です。

父母の愛が真の愛であるのは、持っているものをすべて与えても、もっと与えたいと思う愛だからです。

子供を愛する父母は、与えたことを覚えていません。「おまえには、何月何日にゴム靴を買ってやり、服も買ってやった。おまえのためにこれまでさんざん苦労したが、その代価はいくらだ」と帳簿に書いておく父母は一人もいません。かえって、自分が持っているものをすべて与えても、「これ以上与えることができなくて本当に済まない」と言うのが父母です。
幼い頃、養蜂をしていた父に付いて回り、ミツバチが遊ぶ様子をたくさん見ました。花畑を飛び回っていたミツバチが蜜の匂いを嗅ぐと、花びらにしっかりと足をつけ、尻尾を後ろにしたまま口を雄しべと雌しべに差して蜜を吸います。その時、ミツバチに近づいて、尻尾をつまんで引き抜いても蜜から離れません。命がけです蜜を守るのです。
家庭を持って暮らす父母の愛はまさにこのミツバチと同じです。自分の命が尽きても、子供に対する愛の紐を放しません。子供のために命を捨て、さらには命を捨てたことさえ忘れるのが父母の真の愛です。いくら道が険しくても、父母は喜んでその道を行きます。父母の愛は、世の中でも最も偉大な愛です。


文鮮明先生の語る「真の愛」とはどのような愛を言うのでしょうか。それは「与えても与えたことを忘れる愛」だと語られています。自分の命が尽きても、愛する愛だと説明されているのです。
ところが、です。統一教会員の中には「神様の為」に行動すれば「神様が私を祝福してくださる」みたいな話をされる人がいます。これは果たして「真の愛」なのでしょうか。どうやら、この辺の考え方の間違い、つまりは「私の救いの為」に統一教会に入教し、そのまま「私の救い」だけを考えて活動している人がいることが、世の中の批判を受ける事に繋がったのでは、と思わざるを得ません。


文鮮明先生自叙伝(平和を愛する世界人として) 
第五章 真の家庭が真の人間を完成するー結婚と愛
より抜粋
愛の本質とは何でしょうか。愛の本質とは、人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、人のために、全体のために先に与えて、為に生きることです。与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です。それは、喜んで与える愛です。母親が子供を胸に抱いてお乳を与えるときに感じる喜びの心情がまさにそれです。
父母は、愛する子供のために骨身を削って苦労しながらも、疲れを知りません。それくらい子供を愛するからです。本当の愛は神様から始まり、また愛は父母から来るのです。ですから、父母が「おまえたちが互いに喜ぶのは、父母の恩徳によるものだ」と言えば、子供たちは「お父さんとお母さんが私をこのように育て、このような伴侶と出会わせてくれなければ、大変なことになるところでした」と答えなければならないのです。
家庭は愛の包みだと言うこともできます。天国に行ってその包みをほどいてみれば、その中から良いお父さんとお母さんが飛び出してきます。美しい子供たちが飛び出してきます。慈愛に満ちたお祖父さんとお祖母さんが飛び出してきます。一人一人が愛の包みに包まれている所が家庭です。家庭は神の理想が実現する空間であり、神がなさることの完成した姿を見ることのできる場所です。神の御旨は、愛が実現する世界をつくることであり、家庭は神の愛が満ちあふれた所です。
家族とは、言葉にしただけで自然と口元から笑みがこぼれる存在です。家庭には、心から私のためにしてくれる真の愛が満ちあふれているからです。

真の愛は、愛を与え、そして愛を与えたことさえ忘れてしまうものです。

父母が子供のために生きる愛、祖父母が孫に与える愛が真の愛です。国のために命を捧げることもまた、真の愛です。


自分の救いを考えて活動することは、結局は「利己主義」でしかありません。しかし文鮮明先生の話されている内容は「利他主義」です。人の為に生きれば自分が救われる、と考える事は、一見間違っていないようにも思いますが、残念ながら「利己主義」を抜け出せていない、と私は思います。

私の今の仕事は、私だけで完結する内容はほぼ存在せず、色々な仕事をする人の関わりの中で行っています。例えば、掃除の人が、重いゴミを運んでいるのを手伝ってあげたりするのですが、別にそれで見返りが欲しいとは思いません。ただ、重いゴミを運んでいる人を黙って見ている自分の良心が耐えられないだけなのです。でも、そうやって手伝ってあげていると、たまに「いつもありがとう」と缶コーヒーをくれたりします。思いがけず、そういうプレゼントが本当に嬉しく、その缶コーヒーを大事に飲んだりします。これを労働価値説で考えた場合、私が今まで手伝ってあげた内容と缶コーヒーでは釣り合わない!と怒る人もいるのかもしれません。でも別に私はその掃除の人に「何かをしてもらいたい」と思った事はありません。ですから単純に缶コーヒーをくれたことを嬉しく思うのです。

私が清平40日修練会に参加している時の事です。事務局でスタッフと話をしていると、同じ修練会に参加されていた婦人が事務局にやってきて
「私と同じ場所の掃除の分担を受け持っている青年が全く掃除をしない。その青年に掃除をするように説得してくれ」
と怒って話をしてきました。その時の事務局の対応は、
「それは大変ですね。でも、その青年が掃除をしたくない理由が、きっとあるのでしょう。先輩ならば、その気持ちを受け取って『私が代わりに青年の分も掃除をしてあげよう』と思ってくださると、大変嬉しく思います」
でした。しかしその婦人は全く納得せず、帰って行かれました。

統一教会員の活動を見るとき、統一教会員が「世の中の為」に活動する、というよりは「世の中の人を統一教会の為」に活動させよう、という動きの方が多く感じます。例えば前トランプ大統領に数億円を払ってスピーチをしてもらう、あるいは自民党の国会議員に統一教会系の活動の場でスピーチをしてもらう、あるいは一緒に参加をしてもらう、といった内容です。でもこれは本当に「為に生きる」活動なのでしょうか。結局は「神様の為」といいながら結局は「自分達の為」の活動にしかなっていないのでは、と私は思います。つまりは「真の愛」ではない、ということです。統一教会員がしてきた「霊感商法」も然りです。高い壺等を買って貰い「教会に貢献すること」が購入した人の救いになるのだ、という考えは、「私達の為」に世の中がすることが「善」と考える間違った信仰感だ、と私は思っています。結局は「利己主義」であり「真の愛」ではない、ということです。
私達は再度「真の愛」とは何か、を真剣に考え、世の中の人に対して「犠牲と奉仕」で活動すること、まずは一番近い家族、妻や夫、子供の為に何ができるかを考える事から出発するべきだろう、と私は思っています。

統一教会員に一番考えて欲しい、改めて欲しいと思う事、それは「私達は再臨主に出会って『救われた』」という事実です。「私達は神様に愛されている」のだから、たくさんの人に愛を分け与えよう、と考えて行動してくださる人が、一人でも多くいらっしゃる事を、切に願います。


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