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み言葉の考察⑩ 拉致監禁問題はなぜ起きたのか(2)

拉致監禁問題について、多くの統一教会員がSNS等で「これは犯罪行為だ。裁判を起こして断罪させろ」と叫んでいます。
この拉致監禁問題が起きる以前、マスコミは統一教会を「親泣かせ原理運動」と書き、統一教会の運動は問題だと言い続けました。この問題に対して統一教会の本部見解として「そのような運動はなかった」と言っています。これは本当なのでしょうか。

実は私が統一教会に伝道される前、1970年後半に、私の従姉が大阪大学在学中に統一教会に伝道されました。大阪大学内の原理研究会に伝道されたのです。その従姉は、親から預かった学費を学校に納めず献金し、住んでいたアパートを引き払い行方不明となりました。心配した叔父は、娘さんを探し回り、ようやく見つけた統一教会の寮から娘さんを『救出』しました。

叔父さんが話した内容はこうでした。

「私が寮に着き、娘と話をしようとしたら『サタン帰れ』の大合唱だった。あまりに酷く、娘を無理やり寮から連れ出した。私物を取り出そうとしたら『サタンに天の万物を渡すな』と執拗に抵抗されたが、なんとか取り戻した。その後、原理講論や全ての統一教会の書物等は燃やして破棄した」

まず、学費を献金させるなど、とんでもない話です。そして、親に居場所を伝えない、アパートを勝手に引き払う等、とても学生のする事ではありません。ましてや、親が娘を訪ねてきて『サタン』とは一体どういうことなのでしょうか。
まさに『親泣かせ原理運動』そのものです。
これが統一教会本部の指示ではなかったとしても、こういう原理研究会が存在したこと自体の責任は取るべきだ、と私は思っています。

この内容を私は小学生の時に聞きました。それでも私が統一教会に伝道された理由は、私が統一教会の信仰を持つに至った理由(ワケ) vol.1~vol.8を読んで頂けたらと思います。

さて、この日本の問題以前に、韓国では梨花女子大学事件という、文鮮明先生が投獄される事件が起きました。
1950年代に大学街の伝道を始め、梨花女子大学と延世大学の学生を中心に教会員が爆発的に増え、その結果、梨花女子大学は金永雲副教授をはじめ教授ら五人を免職処分にし、学生14人を退学させた事件です。延世大学でも教授1人が免職となり、2人の学生が退学となりました。
これが契機となり既成キリスト教会が一つになって文鮮明先生をを処断せよとわめき立て、1955年7月4日に逮捕、文鮮明先生は西大門刑務所に収監されました。

この事件は、なぜ起きてしまったのでしょうか。


文鮮明先生自叙伝(平和を愛する世界人として) 
第三章 世界で最も中傷を浴びた人ー教会創立と受難
より抜粋

私は事件の拡大を望みませんでした。

無理に問題を起こしたくなかったのです。そのまま静かに信仰生活をすればいいのだから、あからさまに寄宿舎を飛び出してまで世の中を騒がせる必要はない、と学生を説得しました。

しかし、

「なぜ駄目だと言われるのですか。私も恵みを受けたいです」

と言って、逆に私を説得する者までいたのです。結局は十数名もの学生が学校から追い出されたのですから、私の心も穏やかであるはずがありませんでした。

激しく叩かれて、私たちの教会は大きな痛手を被りました。無念で、腹も立ち、声を上げて抵抗したかったのですが、私は何の声も出さなかったし、彼らと争いもしませんでした。なぜなら、私たちの行く道はあまりにも険しく、目的の場所ははるか遠い先にあって、争っている時間はなかったのです。

1955年7月4日、私はソウルの中部警察署(治安局特殊情報課)に連行されました。屈辱的な扱いを受けたのに、思いの丈をぶちまけて抗弁一つしようとせず、ぐっとこらえる私を見て、「意気地なし」と決めつける人もいましたが、これもまた私に与えられた道であると受け止めて、我慢に我慢を重ねました。それが私に与えられた天の御旨に向かっていく道だとすれば、仕方のないことだと考えました。いかなる困難があろうと私はその道を行かなければなりません。それがそのまま私の存在価値、生きる理由だったので、絶対に挫けないで、困難であればあるほど、誰の前であっても威風堂々と振る舞いました。

悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり、天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。手錠をかけられていく時、通り過ぎる女性たちが私を流し目で見て、顔をしかめました。淫乱の似非教祖だから見るのもおぞましいという表情でした。しかし、私は怯えることもなく、恥だとも思いませんでした。彼らが汚い言葉で私と教会を罵っても、私は決して動揺しませんでした。


さて、この内容を見るとき、なぜ梨花女子大学事件が起きてしまったのか、がわかると思います。
それは、

教会員が文鮮明先生の言葉を守らなかった


という事です。私はこの「恵みを受けたい」という動機が本当に良くない、と思っています。
新約聖書 ルカによる福音書 第12章の一節にはこうあります。

わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。

この意味をどう解釈しても、メシアは恵みをただ持ってくるものではなく、信仰の火を自ら燃やさなければいけない、という内容だと私は理解しています。文鮮明先生は静かに信仰しなさいと言われたのに、なぜその言葉を守らなかったのでしょうか。本当に残念でなりません。
結局、この事件によって文鮮明先生は収監されることになってしまいます。それでも文鮮明先生は「自分の責任だ」と受け止めて収監されたのです。

いま、統一教会は解散命令の請求を文部科学省から裁判所へ提出されています。それに対しての反論として拉致監禁問題を「犯罪行為を見逃すな」と叫んでいる訳ですが、この叫びは本当に正しいのでしょうか。

拉致監禁が盛んに起きた当時、日本では「キャラバン隊」という移動販売、いわゆる「万物復帰」が盛んに行われていました。
「万物復帰」に関しては「統一教会員の間違い④ (霊感商法問題)「万物復帰」というみ言葉は存在しない」をお読みいただけたらと思います。
この、教会員を主に日産のキャラバンの後部座席を取り払った改造車に詰め込み、商品と教会員とで移動と寝泊まりしながらの販売活動は、当然ながら、親からすると子供の住む場所もわからない、どこでどうしているかもわからなければ連絡もつかない状況で、しかもまともな給与も支払われていない訳です。
この状況で『あなたのお子さんがが犯罪に巻き込まれています』と聞いて、信じない親がいるでしょうか。例えどこかで連絡がついたとしても『おまえは騙されているんだ』と、ご両親は説得したことでしょう。それでも止めようとしない子供に対して『協力しますよ』という言葉を受け入れない親はいないと思います。

「子供を無理やり拉致して監禁し、脱会を迫るのは信教の自由に反している。犯罪行為だ」

という主張は、上記の内容を読んでも、正当だと言えるでしょうか。そもそも「万物復帰」と教会が宗教活動だと思っている行為は、まさしく経済活動そのものであり、宗教活動ではないです。ですから当然、労働基準法等、『雇用契約』の内容を遵守しなければいけないはずです。行為が強制でなかったとしても、この販売行為自体が違法行為であったと認めざるを得ません。そういう状況から『救出する』という、やり方が犯罪行為に近い物であったとしても、親の気持ちは「真の愛」そのものだったと私は思っています。

つまり拉致監禁事件は統一教会の違法行為をサタンに讒訴されたものだ


と私は思います。
まず統一教会員は、過去の過ちをきちんと謝ること、そして文鮮明先生の「み言葉」を遵守することです。いい加減にみ言葉を引用、解釈し、
法律を守らなくても良い、それよりも神様の為に活動することが善だ、などとは考えないことです。
よく考えてみてください。他人を騙し奪ったお金を神様に捧げて、神様は喜ぶのでしょうか。あなたが「サタン」だと考えたその人も、神様から見たら「救いたい神様の子女」なのですから。


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