仁賢天皇(意富祁王)

 50代になって真面目に古事記・日本書記を読みました。本当に、なぜもっと早くに読まなかったのだろうか、というのが率直な思いでした。ただ、昔できなかったことを悔い続けてもしょうがない、今学んだことを今後に活かしていきたいと思います。
 特に、古事記。古事記には日本人の生き方、考え方、育んできた風土の要素が詰まっています。これは、竹田恒泰先生も「現代語古事記」の中で、『古事記を読むことは天皇の由来を知ること、それはすなわち日本とは何か、そして日本人とは何か、を知ることである』と述べておられますが、正しくその通りと認識しています。そして、同書の中で、江戸時代の本居宣長が『古事記は古代日本人の心情が現れた最上の書』と評価している、とも書いています。まさに、古代の日本人の心情を知ることが現代の日本人の生き方を知る上での大きな指針になるのが古事記、ということではないでしょうか。

 そんな古事記を読んだ中で、、いくつもの素晴らしいお話がありましたが、私がその中で本当に大好きなお話の一つが、”仁賢天皇の御考えと御行動”です。仁賢天皇に対する記載は古事記でも日本書記でも少ないのですが、その中で本当に、まさに光る御功績をあげられた、さらに、現代日本人の生き方・考え方に繋がっている、と思っておりますので、以下に簡単に紹介させて頂きます。

 第24代仁賢天皇の御経歴について簡単に示します。第16代仁徳天皇の皇子第17代履中天皇の孫であり、父(市辺之押歯王)の従弟に英雄として名高い第21代雄略天皇(仁賢天皇の皇后は雄略天皇の皇女、春日大郎女)がおられました。
 ただ、市辺之押歯王は雄略天皇に謀殺されてしまい、しかも、残酷な仕方で埋葬されるという事件が発生しました。身の危険を感じた意富祁王(仁賢天皇)と弟の意祁命(後の第23代顕宋天皇)は逃げられ、馬飼いの身分になられ身を隠すのでした。
 その後、雄略天皇が崩御され、清寧天皇の御代に意富祁王、意祁命が身分を明かされ、皇位を継ぐ予定だった飯豊王に喜びの気持ちをもって迎え入れられ(清寧天皇には皇太子がいませんでした)、その後、顕宋天皇、仁賢天皇ご即位へとつながるのでした。

 さて、そんな御経歴の仁賢天皇ですが何が素晴らしかったのか、それは、①禅譲の精神と行動、②仇であっても死者には鞭打たない精神、を身をもって示されたこと、です。
 まず、①の禅譲の精神と行動、これは、仁賢天皇(意富祁王)が清寧天皇の後の皇位を弟である意祁命に譲った行動なのですが、それは、身分を明かされ皇室に戻るきっかけになった出来事、ある宴会で御二人が舞を舞い、その中で意祁命が、自分たちの身分を明かす調子を加えて舞うことにより、周囲の人々の知るところになり皇室復帰につながった、ということでした。この時、兄の意富祁王は殆ど何もできなかった、弟が行動しなければ皇室には復帰できなかった、その恩を、皇位継承の際にまで持っていかれる、その精神が本当に素晴らしいです。徳・実績があればその人に位を譲る、まさに禅譲の精神で、日本人が憧れる行動を身をもって取られた、素晴らしい行動と思っております(なかなか出来ない)。
 次に、②の仇であっても死者には鞭打たない精神、これは、仇である雄略天皇の墓を顕宋天皇が破壊するように意富祁王に指示した際、墓の一部を壊すだけで、雄略天皇の功績は維持しつつ、怨敵の恥(身内を何人も惨殺した)をさらす形をとった、という行動でした。これも本当に素晴らしい。これを示して頂くことでその後の日本人の精神の確立の一助となった、と本当に思っています。当時、日本には大陸から沢山の外来人が渡日し始めていました。多分、墓を暴く、という行動も見受けられたのではないか、と想像します。日本になかった風習、日本人も真似する人が出てきていたかもしれません。しかし、それは良くないことだ、と身をもって示され渡来人にも日本人にも示された、正しく鏡とすべき行動と本当に感動しました。
 
 以上の2点を、記載が少ない中でも示された仁賢天皇の功績は、あまりあるものだと思います。この考えを受け継いだ日本人の考え方・生き方は大事に、今後につないでいきたいですね。

 古事記にはそのほか、素晴らしい話がたくさんありますので、少しずつ紹介していきたいと思います。
 

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