江戸の男暮らし

興味が出てきたので、調べたことを書いてきます。

江戸時代、世界でも有数の「食都」だった江戸だが、

庶民の日常はつつましく、食事は主に自炊が多かったようだ。あさは1人5号の飯炊き。
日記の中で、男所帯である伴四郎の長屋では飯は当番制で、飯は昼にまとめて炊いておき、おかずは各自が用意するスタイルだったと記されている。

せっせと江戸の物見遊山を楽しんでいた伴四郎だが、実際に外食自体数えればせいぜい月に7、8回程度で、日常は自分で自炊をしていた。

勤番は長期間江戸にいるわけではないので、調理道具などは共同で購入するなどしていたようだが、伴四郎は料理も好きだったようで、自ら新しい鍋を買ってきてその使い勝手に喜んだりしたことを書き残している。

では、江戸時代の男所帯は日常的にどんなものを食べていたのだろう。

日頃は豆腐、青菜あたりが多かったようだ。朝、銭湯に行き、帰りに四文やのようなおかずやが屋台で出ていて、例えば焼豆腐に青菜のおひたし、別の日は根菜類の煮物。日記にも野菜を煮込んでおすそ分けしたエピソードなどが出てくる。
魚が食卓に上る日も割とある。夜の先頭の後、おかずやで買ってきて、食べ方は刺身や洗いが主で、残りは潮汁にするなど一匹買ったら余すことなく食べきっていて、つつましくも好ましい。手間のせいなのか、焼き魚より刺身や煮魚などの方が日常的であったようだ。

種類としては、最近はあまり見かけなくなった鯔(ぼら)や目刺などが日常の中心で、初鰹などは季節の大ご馳走。

逆に現代の老若男女が好むまぐろなどは、名前さえ上がっていない。


一汁一菜がほとんどで、その他の重要な食材としては、味噌があげられる。汁物にしてよしそのまま飯に塗ってよし、他の食材をあわせて甞め味噌にしてよしの万能調味料は、江戸の食文化には欠かせないものだった。当時の味噌は全て粒味噌だったので、味噌用のすり鉢ですって使うのが普通であったが、伴四郎は細かく切った牛蒡や生姜、砂糖をすり混ぜあわせた桜味噌という甞め味噌の一種が好物だったようで、出入りの商人から頻繁に購入している。

また、伴四郎はかなりの酒好きだったようで、昼夜問わず、体調がすぐれない時でさえも「薬」と称して飲んだりしている。その頃は既に京阪神から運ばれた「下り酒」が流通しており、庶民にも飲酒文化が普及していた。

文化8(1811)年の調査によると、その頃江戸には1808軒の煮売屋があったという記録もある。煮売りというのは、飯と魚、野菜、豆などを煮たおかずを売る店のことで、そこで酒も飲ませていた。今でいう一杯飲み屋や居酒屋のようなものだろう。

江戸時代は伴四郎のような単身赴任者だけでなく独身男性が多く、現代のようにコンビニエンスストアなどない時代には、手軽に食べて飲める店は重宝されていたのだろう。

「薬」といえば、さ意外な記述がある。伴四郎が風邪をひいたときなど、これも薬と称して頻繁に豚肉を食べていることだ。

歴史上、その頃の江戸では肉食は表立っては禁止されていたことになっている。しかし、実際には江戸から一歩でも出ればゆるゆるだったようだ。

もともと古くから山間部や農村などでは「薬喰い」といって、猪や鹿、豚や熊など、現代でいうところの「ジビエ」を食することは行われていた。

和歌山という海の近くで育った伴四郎が江戸でも普通に豚肉を食べていることからも、この頃の肉食は都会であってもそこまで特殊なものではなかったことが推察できる。


参考:酒井伴四郎日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?