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ぶったん四方山話#10 福岡と博多と埋立地

”福岡=博多”と認識している人も多いと思いますが、実は福岡と博多は全くの別物です。博多は歴史的にも古い土地の名称ですが、現在の地下鉄の駅名で言えば博多・天神・中洲川端を中心とした商業エリアです。博多は魏志倭人伝には奴国なこくと呼ばれていて、その港が那の津なのつです。

博多はその昔、海外(中国大陸や朝鮮半島)からの侵略も経験しています。それが元寇で、二度の戦いは文永の役と弘安の役と呼ばれています。福岡市には”幻の福岡市歌”と言うのがあって、現在は誰も知りませんが、その歌詞の一番には元寇のことが書かれていて、”10万人の敵兵を打ち破った博多の地”みたいな意味の勇ましい歌詞になっています。

安土桃山時代の末期(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉は、黒田官兵衛らに荒廃した博多の町の復興を命じました。このとき官兵衛は、戦乱で荒廃した博多の復興事業の柱となる『博多町割り(太閤町割り)』、今で言えば都市計画を立案しました。博多の町は南北に区画整理され、後に”博多塀”と呼ばれることになる瓦礫を素材に利用した塀を作り、町の端に墓地のある寺を集めて防塁にするなど、巧みな町づくりをしました。

黒田官兵衛は、頭が良すぎて豊臣秀吉には冷遇されましたが、徳川家康の時代に”博多を含む”筑前の地を所領とすることになりました。これが黒田藩です。黒田家は現在の大濠公園に城を構えて、その周辺地域を”福岡”と呼びました。福岡は、黒田家の故郷である備中の地名です。現在の地下鉄駅で言えば赤坂・大濠公園・西新あたりまでが福岡です。つまり、福岡は歴史的に言えば博多よりずいぶん新しいことになります。

大昔の奴国の時代と現在の福岡市では、地形が大きく異なります。昔は海がかなり内陸まで広がっていました。その証拠に、博多には住吉神社という”海の守り神”の神社がありますが、現在の海岸線からはかなり離れています。これは、住吉神社が出来た当時はこの近くまで海があったことを意味しています。また、博多湾の西側にある糸島半島は、その昔は半島ではなく島でした。”いとしま”は陸地である怡土いとと島である志摩しまを合わせた地名です。

現在の福岡市には埋立地が多く、その地名には特徴があります。それは地名の最後に”浜(はま)”という漢字が付きます。東から行くと香椎かしい浜、地行ぢぎょう浜、百道ももち浜、とよ浜、愛宕あたご浜です。愛宕浜の西には姪浜めいのはまがありますが、ここだけは昔からの港町で、埋立地ではありません。

この埋め立て地で異色なのは豊浜です。この他の埋め立て地は、水平な平地ですが、豊浜だけは小高い丘陵地になっています。これは、その昔に石炭を採掘していた姪浜炭鉱からのボタをここに集めて、ボタ山を形成していたからです。昔の地図には豊浜辺りに”ボタ”という表記がありますし、近くにある小戸公園も元々はボタ山です。

博多駅周辺は最近再開発されてオシャレな商業地域に生まれ変わりました。今では都会的な雰囲気ですが、昭和の古い時代には今ほどイケていませんでした。現在の博多駅の筑紫口(新幹線乗り口)周辺の地下には今でも炭層があって、昔は狸掘たぬきぼりという”許可を得ない勝手な石炭採掘”の跡が残っていました。地下鉄工事の時には、この狸掘りの結果でできた”地下空洞”が問題になって、私の研究室でも空洞調査に協力したことがありました。

この時に発見された地下空洞は、薬液注入というセメントの流し込みでふさがれることになりました。その薬液注入跡は、その後の地下鉄工事の地下道掘削で検証されました。

今回は博多&福岡の歴史的なことと、最後に物理探査の話題をチョイ足ししてみました。少し長文になりましたが、楽しんで頂けたでしょうか?。

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