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自由律俳句に思うこと

世の中、短歌や俳句のブームです。このブームのキッカケは様々でしょうが、スマホやSNSの普及で、短い文章に触れる機会が多くなったことも、ームの一つの要因かもしれません。

短歌や俳句には文字数制限(音数律)がありますし、俳句には季語が必要です。このような制約の中で、様々な感情を歌に込められるのが現代人の琴線に触れたのかもしれません。私は、ゴリゴリの理系なので文学的な才能が皆無なことは自覚しています。したがって、短歌や俳句に手を出すことはしていません。

俳句は文字数や季語の制限がありますが、これらが無い自由律俳句というものもあります。高校の時の国語の教科書だったか(?)、自由律俳句の紹介がありました。あやふやな記憶ですが、そのなかで自由律俳句の雄である種田山頭火と尾崎放哉が紹介されていました。

その中で、意味は分からないながら記憶に残る一首がありました。それが、タイトル画にある「咳をしても一人」です。これは、咳をしても部屋には自分一人しかいない寂寥感を表わした句として知られています。私は種田山頭火の印象が強かったため、この記事を書く今の今まで、この句は山頭火のものだと思い込んでいました。

しかし、実はこの句は尾崎放哉の代表作でした。自分の記憶力のいい加減さに40数年ぶりに気付きました。これで、尾崎放哉の情報がアップデートできました。知らない事や間違って覚えていたことは、まだまだありそうです。


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