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松前藩の正史 「新羅之記録」解説2

コシャマイン動乱の考察 

 松前藩の「正史」には、この新羅之記録のほか、蠣崎波響の叔父が編纂した「福山秘府」そして、「松前志」「松前年代記」などがあるのでございますが、多かれ少なかれ、これらの松前家の史書は新羅之記録がベースになっているのでございます。

 さて、ともあれ、一介の「客将」であった武田信廣が、蝦夷の島主として正当化できる客観的な事実は、やはり蝦夷蜂起の鎮圧にほかならないわけです、まさにキングダムの世界でございましょうな。

 したがって、新羅之記録でも、史実として蝦夷鎮圧の顛末の表現に、めちゃくちゃページをさいているんですよ。したかって、これがストーリー性があっておもしろいのでございます。そうです、いわゆる「コシャマインの乱」なのです。

 事の発端は、「志苔」(シノリ)のコタンでおこりました。(現在の函館市志海苔町付近)

 この地は「志苔館」があり、和人と蝦夷が混在して集落を作っていました。で、この志苔の鍛冶屋村で、近くのコタンの首長の子「オッカイ」が、マキリ(小刀)をここの鍛冶屋に注文しました。

 ところがそのマキリの出来がめちゃ悪く、それでオッカイが、鍛冶屋に対し返品と先に交換した品物の返還を求めたんでございます。まぁ、「リコール」っていう現代なら当然の消費者の権利行使だったわけですな。

 ところが、とうの鍛冶屋はこれに応じることなく、逆にオッカイと言い争いになったんでございます。

 で、頭に血が上った鍛冶屋はオッカイをそのマキリで刺し殺してしまったんです。

 オッカイはその場で即死しちゃいました。なんと驚いた鍛冶屋はそのまま自分の鍛冶小屋から姿を消し、逃走してしまいました。

 なかなか帰ってこないオッカイを心配したコタンの人々は、志苔の鍛冶屋へ様子を見に行きました。すると、そこにはオッカイの変わり果てた姿があったのでございます。コタンの人々は悲嘆に暮れましたが、気を取り直しオッカイの遺体を手分けしてコタンへと運んだんです。

 コタンの人々は、明らかに和人に、理不尽に殺されたオッカイの敵討ちをそこで誓ったのでしょう。もとより、蝦夷の民は人との戦いをよしとしない「狩猟民」だったのですが、いつしか和人との間で、交易をおこなうようになり、双方に「利害」が生まれた段階で、これらに関わるトラブルがたびたび起こっており、蝦夷の間では和人に対する不満がつのっていたのでございます。

 つくづく「経済」とは、そこに争いの種を産むという副産物を産むものなのでございます。これはある意味皮相的な世相を生み出すのです。

 これをトリガーにして、蝦夷の民は周りのコタンの人々にも呼びかけ、オッカイを殺した張本人が住む志苔の鍛冶屋村を襲撃し、女子どももかまわず虐殺したのです。

 鍛冶屋村をおそった人々は、さらに周辺の和人の村に襲いかかり、同時多発的にあちこちで蝦夷が和人の村を襲う事態になってしまったのでございます。

 で、その矛先は、ついには蝦夷に置かれた和人の本拠である館を攻撃するにいたりました。志苔館の当主、小林良景は、この襲撃の鎮圧に苦労し、必死に防戦したというわけです。

 はてさて、実はこの蜂起は秋には自然に、とりあえず沈静化しました。

 その理由は、狩猟民である蝦夷の民は、獲物が捕れない冬ごもりに備え、食料を蓄えておく必要があったため、蜂起する暇はなく、狩り場へ散っていったからなのでございます。、まずひとまず混乱は収まりました。

 各館の当主は、ひとまず胸をなで下ろしました。この乱を「康正蝦夷の蜂起」と呼び。康正2年(1456年)に起こった出来事でございます。

 さて、蝦夷管領として、蝦夷島の盟主の立場にあった安東政季は、道南十二館の各当主を、自らの居城である「茂別館」(現在の北斗市茂辺地)に集めました。
 武田信廣は、この時、上ノ国花沢館の「副館主」の名目で招集されたんでございます。信廣は、来春再び起こるであろう蝦夷の蜂起に対する、団結の確認の招集であろうと、密かに考えておりました。

 ところが、政季からでた話は、本拠の秋田に戻るというものでした。

 つまり、政季は陸奥の動乱で蝦夷島に渡ったのであり、本拠は秋田にありました。そこがそもそも前提です。会社で言えば「出向」の立場です。だから、おれは動乱が収まったから、本社に帰るよ!という発表です。

 ですが、安東氏は旧来より「蝦夷管領」の役職を名乗り、蝦夷地和人武士団のいわば「盟主」であったわけでございます。

 そもそも「荒くれ集団」の武士団は大義名分で行動する者どもであるから、まとめ役たる盟主がいないことには求心力を失い、ばらばらになってしまうのはあたりまえでございます。すなわち、将なき兵は無力というわけでございます。これでは万一蝦夷が蜂起しても、戦えないばかりか、大義名分のない社会は互いの抗争や混乱を呼ぶばかりなのでございます。

 これは避けたかった。これが客将の立場である信廣の本音でしょう。何を置いてもこんな乱世では、「大義名分」が何よりの力なのです。信廣は自分の分を弁えていました。

 政季は武田信廣を自分の後任として推挙しますが、信廣はこれを固辞しました。いささか盛っていますが、このような理由で断ったのでございます。

「蝦夷管領は安東家代々の世襲の職であり、もし御家以外の者が継いだ場合は、他の館主たちがそれに従うかどうかは疑問にござ候。したがって、何も蝦夷管領職を人に譲るよりも、御身は本拠の秋田にあって蝦夷管領職に就き、蝦夷の盟主として我ら館主の上にいただき候。しかるに、蝦夷島には数人の御家の管領代を任命して派遣すれば事済むことでござ候。」
 
 この案を政季は採用しました。

 その結果、管領職は安東政季がそのまま続け、蝦夷島の統治はその管領代として3人の館主が選ばれました。そして花沢館を中心とした上ノ国は蠣崎季繁、大館を中心とした松前は下国定季、そして茂別館を中心とした下ノ国は下国安東家政がそれぞれ選ばれ、武田信廣は蠣崎季繁の客将として上ノ国統治の補佐にあたったんでございます。

 そして周辺の館主は「管領代」の統治にしたがうという、蝦夷における統治システムになったのでございます。これは、あるいみ蝦夷の民も、今までの生活システムから「中世」という、和人勢力に対する「生活防衛」の世界に引き込まれたと言うことなのかも知れません。すなわち、彼らも「流通」の中に引き入れられたために、その状況が生まれたのだということでございます。

 さて、年の明けた長禄元年(1457年)5月、冬ごもりが済み、勢いを得ていた蝦夷の民たちは、ユーラップ(現在の二海郡八雲町)の大酋長コシャマインを盟主に立て、東はムカワ、西はヨイチに至る広範囲のコタンの首長たちが次々と和人の村を襲撃し、コシャマイン麾下の各コタン首長は1万人を超える軍勢となって、事件の発端になった「志苔館」に向かって進軍しました。

 大将はコシャマイン、その息子が副将として指揮にあたりました。コシャマイン軍は毒を塗った附子矢ぶしやと短弓を巧みに操り、志苔館に襲いかかったんでございます。

 応戦に当たった館主の小林良景は、その軍勢に驚きました。下ノ国管領代の麾下に過ぎない志苔館は手勢わずか250人、この大量の軍勢の前にあえなく陥落、良景は敗走しました。

 コシャマイン軍はなおも攻撃の手を緩めず、ウスケシにその軍を進め、ウスケシにあった「箱館」も攻め落とされてしまったのでございます。箱館の館主河野政通も、下ノ国の本拠であり、防御に優れた茂別館へと敗走せざるを得ませんでした。

 コシャマインは地の利のあるウスケシの「箱館」を占拠して、ここを本拠に、一気に和人の館を攻め、和人を追い出す攻略を始める用意をいたしました。蝦夷地から「和人」を一掃しようとしたのか、それとも「共存」の申出をしようとしたのか、基本的には「弱肉強食」の中世です。蝦夷の民としても交易の有意性は感じてはいたはずですから、「敵対」というよりはいかに自らの「蝦夷における優位性」を求めていたに違いありません。すなわち、「外交政策」なのです。

さて、この強敵コシャマインに、武田信廣は、どのように対抗していったのか・・・。以下次号でございます



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