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中国三千年の歴史に挑戦する・その10

傾国の美女~唐王朝の盛衰 後編

     617年~907年

3代高宗のころから唐は拡大政策を進めていました。北方民族の突厥とっけつを下した後、高句麗から西域を下し、東は朝鮮から西はアラル海にまで至る版図を作り上げていました。

  この領土経営は、かつての漢王朝などの「長所」を取り入れ、征服地にはある一定の自治権を与え、たとえ異民族であっても、能力が高いものは中央の官僚に取り立てる制度を作ったのです。

 地方は6つの都護府とごふという仕組みにまとめ、そこの役人に現地人を任命して支配制度を固めました。また、希望があって、実力があれば、異民族であろうが中央の役人にどんどん取り立てていきました。

 こういった唐の発展の陰で、王朝は時々危機を迎えました。そして、その危機の陰には必ず女性の姿があったと言うことです。
 最初の危機は、版図拡大の極にたった高宗の時代でした。かねてから門閥貴族集団と、実力のある貴族や科挙出身者の間では、政治的内紛が起こっていました。そして、なんと国内でクーデターが起こり、唐王朝は一時乗っ取られます。この中心人物になったのが、高宗の後妻であった則天武后そくてんぶこうです。

則天武后

 則天武后は自ら皇帝を名乗り、改革を行いましたが、やがて引退させられました。こうして4代中宗が即位しましたが、なんと皇后の韋氏に毒殺されます。こうした宮廷内の内紛が続き、武韋の禍ぶいのかと呼ばれました。
 これを鎮めたのが甥にあたる李隆基で、父の睿宗から禅譲をうけて即位しました。それが玄宗です。

 こうして、6代皇帝
の時代、唐は最盛期を迎え、開元の治かいげんのちと呼ばれました。まさに国際的な大帝国になったのです。
 たとえば玄宗皇帝は、日本から遣唐使でやってきた、阿倍仲麻呂を役人に取り立てたのは、その最たるものであるでしょう。まさに国際色も豊かな社会であったというわけです。
しかしこのような栄華も、やがて衰えるときが来ます。
 
 唐の社会は、時代の変化に応じて、徐々に矛盾が広がりました。それに対応して制度が変化するのは、当然の流れです。当初の制度は現実に併せて大きく変化していったのです。 そして玄宗は絶世の美女を后に迎えます。それが楊玉環(貴妃)でした。

楊貴妃画像

 玄宗は楊貴妃に惚れ込み、楊一族を厚遇し、宮廷内での高官に依怙贔屓えこひいきして取り立てますから、当然一族の専横が目立ち、政治は荒み始めたのです。まさに「傾国の美女」そのものでした。

 この頃になると、中央政府は地方政治にあまり関与しなくなり、たとえば地方の治安や軍事は節度使せつどしという地方官が担っていました。この節度使は10あり、おのおの数万から10万くらいの軍隊を擁して、国境警備等にあたっていました。中央からの統制は及ばず、中には私兵を雇って主従関係を結ぶものも生まれました。当然ながら「軍閥」というものになるわけです。

 そもそも「国防」を外注するようになると、その国の将来は見えています。軍閥化した節度使の中で力を持ったのが安禄山でした。彼は3つの地域の節度使を兼任、強大な力を持っていました。

 そしてついに叛乱を起こし、華北を手中に収め、玄宗を成都に追いやったのです。これを安史の乱と呼んでいます。これは鎮圧されましたが、この乱を機に唐王朝は急激に衰退し、907年、ついに唐は滅亡しました。

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