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中国三千年の歴史に挑戦する・その9

中華大帝国の誕生=隋と唐

589年~617年

北周の宰相楊堅ようけんは、581年北周の帝位を禅譲され、国号をとしました。これが隋の文帝です。

 文帝が手がけたのは律令の整備でした。律令とは、刑法=律、行政法=令。の総称で、国の秩序をこの「法」によって統制するというやり方です。これによって、皇帝を頂点とする中央集権体制が図られました。

 文帝はこれを徹底し、三省六部の政治体制を整え、589年に南朝の陳を滅ぼし、中華統一を達成しました。
 また、地方の統制も改め、州・県のわかりやすいしくみにして、中央集権制度を確立しました。

 ところが、この後を継いだ煬帝ようだいは大規模な土木事業や、無謀な外征による失政を重ねました。この外征を成功させるためか、当時蕃国の扱いであった倭に対し、対等外交を承認したのも、ある意味異例であったのかもしれません。

  実は煬帝のこういった政策には、大きな意味がありました。まず土木事業にはメインとして華北と江南を結ぶ大運河の建設がありました。中華統一を果たし、江南の潤沢な経済資源を、人口増加甚だしい華北に行き渡らせるためには、どうしても必要なことでした。ですからこの事業は、初代文帝の頃から始められていました。

 また、北方異民族の侵入を防ぐためには、満州南部を制圧する必要があり、この政策の障害となる高句麗は、制圧しておく必要があったからです。しかし、煬帝はこれらの事業をiiいささか急ぎすぎていました。

大運河は今でいえば「新幹線」

 結果高句麗遠征は失敗、煬帝は反乱軍によって死に追いやられます。618年、煬帝の後を継いだ恭帝は、反乱軍の中心にあった李淵りえんによって殺され、李淵が代わって帝位に就き、「唐」を建国したのです。

 唐の政治形態は、基本的に隋の制度をそのまま踏襲し、改良した形になりました。この制度を確立したのは、二代目の李世民でした。彼は626年即位し、太宗と呼ばれ以後300年続く唐王朝の基礎を築きました。
 そして、この統治制度である「律令制度」は、東アジア全体のスタンダードとなったのです。

 唐の政治制度は、基本的に隋のそれを引き継ぎ、ブラッシュアップしたものだと言えます。すなわち、律令を基本とし、合理的に皇帝の地位を高めること。財政も、公地公民を基本とした隷属的な徴税税制度。徹底した郡県制による中央集権と、それに基づく官僚的軍制の確立でした。

 こういった合理的な国家体制によって、唐王朝は稀代の大帝国に発展しました。


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