見出し画像

彼振動カットバック'83        クラノ・テキニマスセ


   1


 ドバシ弘道は、月ラコ三世の幼少期から六百年後の転生まで見守り続けた。子安三丁目のセブンイレブン跡地に居座り真夜中まで腰痛と闘いながら。駐車場で安物のビールと合成ウイスキーを飲んで大騒ぎしている七人組のボイガーキッズらを蹴散らし、五百年前に拾ったホンダを全速力で躯った。城東の一般道に場面をずらしたまでは良かったが、まさかの水素切れ。新幹線の窓から一瞬だけ見えた気がした富士山のように、無駄に記憶に焼きついたボイガーキッズのひとりの少女の微笑みに、十数年間勉強机の抽斗の中に忘れ去られていたブラックサンダーのように噛み砕くことのできない淡い恋心を抱き、ビリージーンのマイケル・ジャクソンばりに振り返ると、最早そこに誰の姿もなかった。
 これで百年は遡ってしまったことになる。
 ドバシの背中からは変異の証左であった立派な赤銅色の翼はなくなり、代わりに役に立ちそうもない巨大な黄金のリングが肩甲骨から上に向けて生えていた。これが、以前の形態なのか。膨大なシリコンに納められた記憶の断片から、また、古いものが発掘されたのだ。ドバシはたまらなくなりコールセンターに電話を入れる。
「春にして、女性に殺された。だから僕も人を殺さなければならない」
 もちろん事件が起きているのはこの世界ではないし、奇跡は物語の形をとらない。
 ランチを前に数字の打ち込みが早くなりお喋りも減る本気モード全開の経理職員のような口調で電話口に出たのは、あの佐々井玲香だ。そう、それが世界。玲香を合成する記憶が地球上すべての意思を繋いでいる。大昔、人類は、インターネットという情報通信網を使っていたそうだが、佐々井玲香はそれが何千年も経て人化したものにすぎない。
 月ラコ3世の死を世界が共有する。順番通りの再現に間違いはないし、探査機の分析は日増しにその精度を高めていく。何億回も繰り返されてきたスウィング・アンド・ストレッチ。次の記憶を発掘。次の記憶を発掘。次の記憶を発掘。
 アイラのシングルモルトが机上に出現しドバシはそれを舐める。鼻の奥をくすぐるようなシェリー樽の香りにチェリー、黒スグリ、シトラスを感じながら、北極の氷を溶かした透明な水のようなマウスフィールを味わうように口の中で転がす。そんな時間に浸っているのに、結局は、ボイガーキッズの操る六十五年式フォードマスタングが追い上げてくる。
 ボイガーキッズのひとりが、大工調べの後半を奇声を交えながら早口で語り、出囃子の「老松」が延々と三百億回繰り返されるうちに、ドバシの背中はざっくりと割られた。千三百人の斧定九郎が、シャリンという揚幕を引く音とともに、びしょ濡れでボロ傘をぶんぶん廻しながら飛び出してくる。ドバシは花道の七三に控え、ばっさばっさと彼らを振り払う。次のボイガーキッズは簡単だった。灼熱の水星基地で、七日目の蝉が最後の力を振り絞ってバタバタと羽を動かすように勝手に力尽き果てていった。ボイジャー二号の実物大模型が数万個、彼らの口からはき出されて虚空に散っていった。いまさら、何を探査するのだ。

 それでもドバシは世界じゅうで時間を遡り遺跡のシリコンを求める。

 そして雨。あの歴史的な雨だ。百二十年の間、止まらず世界を覆い尽くした豪雨。記憶は歴史。歴史は記憶。消えやしない。確かに月ラコ三世の消滅はヒトという種にとって史上もっとも大きな損失だ。ブダペストの「漁夫の砦」では、最後の探査員である矢車中佐がアレクサンダー壁喰い虫の大群に対峙していた。酒乱の横綱レスラーのように暴れる三百体のボイガーが河を渡ってくるのを眺め、萎縮しきって、いままで歩んできた道を引き返そうとしている矢車中佐の股間をアレクサンダー壁喰い虫の必殺技電気アンマが容赦なく貫く。
「ほんとうに人を殺したの?」
 佐々井玲香が囁くようにして訊く。終わった? ほんとうに終わってしまうのか?
「確かに、その感触はあったんだ」
 ドバシ弘道の声が「漁夫の砦」全体を共鳴させて唸りをあげる。
 一時間。また一時間。百年。また百年。千年。ドバシは、時間を遡り続けるしかない。過去を採掘し、滅亡に連なる変化の芽を潰すしかこのみじめな種を保存する術はないのだから。
 矢車中佐を失ったいま、ドバシは孤独だ。千年前にはたいそうな賑わいだったであろう星間旅行用マスドライバー基地の廃墟が眼下に見える。極側からの生暖かい風。
 誰もいない無音の世界で、自分じしんの心臓の音だけが頭のなかで反響し続けていた。

  2

「バーカバーカ。この三年おちんちん野郎。まだギグは始まってないのに」
「ギャー。ばたん。元気ハツラツ!やられたんC。これはこれはホイジンガ。ばったん成人。成人向けぐりぐらはエロの極地」

 本日は、これぎり!

〈了〉

【1922w 原稿用紙換算5枚と10行】
#イグBFC3  参加作品

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?