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銀座線

 昨夜「消去」されたのはDJ・ハンプトン。大学は大騒ぎだが、世界に影響はない。一昨日ホイアンの繁華街で拾った細身で青白い顔の少年にギンザミツコシで服を買い与え、マンダリントーキョーのレストランでディナーを愉しんでいる。
 歳のせいかすっかり少食になった俺に、コースは過剰だ。左手でメインの皿を押し出すと、少年は遠慮なく喰らいつく。フォアグラと仔牛が纏っていた無花果のソースが彼の薄情そうな唇を濡らす。紫に染まった唇のやわらかな触感を想像し、少年を徹底的に破壊する妄想のなか私は充分に勃起していた。ゆっくりと。ゆっくり確実に生き延びればいいんだ。ベトナム風のカフェダーを飲みながら、視界の端に光が生まれるのをちらりと確認した。若い子はカフェダーなんて飲むものはいなくなっているとか。コンデンスミルクの甘ったるさと苦さだけが強いロブスタ豆。コロニアル時代の遺物も滅びつつあるらしい。
 まただ。
 繰り返し。
 次の刹那、レストランは薄いオレンジ色の光に包まれる。ガラス張りの天井が軋み、割れた窓ガラスの雨が俺たちのテーブルに降り注ぐ。見ると少年は頸から勢いよく鮮血を噴き出している。視線は力無く斜め上を指し、仔牛を刺したフォークがフェラのときみたいに開いた口の手前で留まっている。辺りの悲鳴。アラート。また、同じこと。同じことの繰り返し。繰り返すたびに面倒になっている。
 強制離脱。
 〈心入〉を解く。
 少年にはチップ経由で支払いを済ませた。
 黴臭く狭いネジロの灰色の壁。カーテン越しに陽光が注ぎ、ベッドに横たえた躰は汗でぐっしょりと濡れていて、湿ったシーツの上で俺はだらしなく射精した。十四時「消去」されていない。熱いシャワーを浴び、チップに新しい〈皿〉をロードする。少年に現実で会える保証はもちろんないが、彼が最初に出現したノードを探ればだいたいの居住地は割り出せる筈。ブリスベン、ダブリン、千葉、ハノイ。そしてホイアン。グリッドの過去は三十年くらい洗える。十二万ドンの課金はなんでもないが、俺には〈時間〉がない。高い天井からぶら下がるB-52爆撃機のプラスティックモデル。二百年前の戦争でナパームの炎に焼かれる森林の写真。
 栞子がまだ少女だった頃の真白くさみしげな美しい笑顔の古いポートレート。
 悔しさが記憶の奥底から蘇る。
 俺は瓶に残ったすべてのクロポト錠を口に放りこみ、一気に噛み砕く。
 少年の背中、大きな赤い火傷の痕を舌でなぞる仮想の感触が限界まで増大され、俺の老いた全身を貫く。外苑前のホームの壁に書かれた言葉は、今もはっきりと網膜に焼き付いている。預言者の言葉だ。それをブツブツと呪文のように繰り返しながら、米軍がダラットに放置した実験炉に〈心入〉する。巨大な圧力が頭を揺らす。暑い。寒い。沸騰する。凍る。磁場が常の数十倍の強さになって俺の躰に浴びせられる。大学は俺を解雇するだろう。発見されたとき、DJ・ハンプトンの顔は地下鉄の壁にめりこんでいたと聞いた。逃げ場がないのは判っているし、何十年も数千のスニッピーが好き放題に出鱈目なコードを書き足し続けたこのノードは、クロポト廃人の終着駅だ。奴らには磁場が邪魔するなんてことはないだろうが、俺は別。あの日、栞子の質量がマイナスに突入したとき〈時間〉を大量に消費しちまったから。
 1998年。
 土曜日の朝、ベンダ族の村でムサングウェ競技会にエントリーするために、背鰭に櫛を通しながらこの十数年に流された体液のことを考えた。
 日曜日の夜、マンションで配偶者と子に別れを告げ、二十七年間の人生の環境負荷を計算しながら、飛び降りるに最適なビルディングを探した。
 月曜日の午後、自動コントロールと人為的な操作との矛盾のために下降した機体の体勢を取り戻そうと、急上昇し失速したその航空機が墜落する際に、機長が「最後だ」と呟いた。
 火曜日未明、泥酔のまま寝かされていたマジェスティックのルーフトップバーの特別室で、花とキャンディーを売る腹をすかせた子どもに、「ここで食っちまえ」と残り物のバーガーとポテトを渡し、あとでババアに殴られないように売り物をすべて倍の値段で買い上げてやった。
 水曜日、木曜日、どこかの国のどこかのホテルのスイートで死んだように眠り続けた。
 金曜日の朝、コンソールで目覚め、消去されはじめていることに気づいた。雄ネコのシゲルに最後のごちそうを与え、俺は、自分の裸体を観察した。鍛えたつもりになっていた薄い筋肉と、醜く垂れ下がった脂肪。だらしなく萎んだ男性器。深い皺が刻まれた暗い顔。
 栞子がいなくなってから長い時間をかけ「消去」ははじまっていたのかもしれない。

 何十年も親しんだ黴臭く狭くて暗いネジロで、俺は立ち上がる。終わるのは悪くない。むしろ理想的な終わり方ではある。
 生身が粒子に分解されていくのを感じると、おかしくておかしくて、俺は涙でくしゃくしゃになりながら笑い続けた。

 そう、栞子が微笑んでいるよ。

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