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マイストーリー~幼少期から大学生まで~

note を始めてみます。
まずは、自分自身のために。日常から2mmの学びを削りだすために。

その第一歩として、自分自身を振り返ってみる。徒然なるままに書いてみるので、どうなるかは・・・想像がつかない。まずは、大学生まで。


~良い子にしていた幼少期~

山梨県出身の父親と秋田県出身の母親、男3人兄弟の長男として東京で生まれる。父は、公務員。母は、専業主婦。

男3人兄弟なので、両親はさぞかし大変だったと思う。
特に、日中家にいる母親からすると、いつの間にか取っ組み合いが始まってたりうるさいし、家の障子や壁が破られたり。僕が親だったら、発狂していたのではないでだろうか。

家の中では、兄弟とうるさくやっていた私ですが外に出ると それは大人しい男の子。周りの人の目を気にする感覚は、今もあるがこの頃から強く持っていたのではないか、と思う。

なぜ、そうなったのか。
恐らく、家や親戚の集まりで「長男なんだからしっかりしなさい、大人しくしなさい」と言われ続けてたからではないか、と思う。優しい両親なので、決して強く言われるわけではないのだが 事あるごとに言われた気がする。

そして、大人しくすると「良い子だね~」と親戚の皆さんから褒められる。これを続けるうちに、自分が良い子に見えているか、を過度に気にすることがデフォルトになってしまったのではないか、と感じている。

そんな自分は、仏教の幼稚園に入った。合掌したりお経を読むことが日常で今でもお経を聞くと、落ち着く自分がいる。見えないものを信じる感覚、神様が自分達のことを見てくれている、見守ってくれている。だからこそ悪いことはしない、という感覚を今でも持っているのは、幼稚園で過ごした環境が影響しているのでは、と感じる。幼少期の教育は、大事だ。

~はじめて「やりたい」が芽生えた小学生時代~

小1のとき、相変わらず、大人しい英律だが 母親から「サッカースクールが近くにあるから入ってみたら」と言われる。今思うと、外だと弱弱しい英律に、「もっと逞しく育って欲しい」と思ってチラシを渡したのかもしれない。

特に「サッカーをやりたい」と思っていたわけではないが断る理由もないので、入会。同時期に入った友人Sは、今では親友なので改めてあの時期に入会させてもらった母親には感謝している。が、いかんせん当時の自分は楽しくない。毎週末のサッカーを苦痛に感じていた。なぜ、苦痛だったのか。

友達がいない。勝ちたいと思えない。下手だと思われたくない。
色々理由は、あったと思うが「下手だと思われたくない」という想いが一番強かったのではないか。初心者は、下手で当然。そこから上達すればいいだけなのだが、元来 主体的に入っていない自分には、その気持ちも芽生えず 下手くそな自分に対する他人からの評価の方が気になっていたのではないかと思う。

そんな自分に変化が芽生えた。
小学校5年生のときだ。

めちゃくちゃサッカーが上手い子が転校してきた。その名もE.H.。
衝撃を受けた。

リフティング20回くらい出来ればいいや、と思っていた自分・自分達を尻目に200回を普通に越えてくる。シュートもドリブルも出来る。

鎖国だった日本に黒船が来たかのような衝撃だった。

「うまくなりたい」という気持ちが初めて芽生えた瞬間だ。
同じように感じたのは、私だけではなく 親友のSも同じ。

そこから我々は、サッカーに夢中。放課後から、夜21時頃まで。
この頃から、公式戦でも初めて勝つことができ結果を出すことも楽しくなっていった。

少し横道にそれるが、サッカーに夢中になってた時期に、リンクして夢中になったのが、「キャプテン翼」。
中でも、ダントツに好きだったのが「松山 光」くん。




詳細は、割愛するが、彼は「粘りの松山君」と言われる(私がそう呼んでるだけかもしれないが)くらいの努力家。


キャプテン翼「松山 光くん」

※気になる方は、松山君好きが語ったnoteを参照ください
https://note.com/4_5matworks/n/ndd9313b8a6f5

派手さがあるわけではないのだが、責任感があって仲間思いで努力を忘れない。潔さと優しさ、力強さを兼ね備えている彼は、今でも私の理想のキャプテンだ。

その松山君が大好きな英律少年は、この時期 マンガをお手本にキックの練習をめちゃくちゃしていた。ドライブシュート、カミソリシュート・・。コーナーキックも。
シュート、コーナーキックにめちゃくちゃこだわってた。
狙ったところにシュートする、コーナーキックで仲間のヘッドに合わせる、など。

おかげで、コーナーキックは 僕が蹴ることがほとんどになったし、PKも選ばれるようになった。

自宅は、公務員住宅だったのですがキックの練習は 家の前でもしょっちゅう行ってて。近所には、相当迷惑をかけていたと思う。

1つのことにこだわり、技術を磨く。シンプルな技で違いを見せる。

この特性は、当時から持ち合わせていた気がします。

もう1つ、小学校の時に印象的だったこと。
それは、音楽の授業だ。

小学校6年生のとき(だったかな?)、ベートーヴェンの交響曲第九番を演奏することになった。(交響曲第九番 https://youtu.be/jnLFpfz5Plw?si=FI1-m1tyVksVtAKX)

そこで、多くの人はリコーダーと歌を歌うのだが 「アコーディオン」という選択肢があって。私は、なぜかアコーディオンに指名されたのだ。

そのアコーディオンが面白かった。
皆が大きな声で歌っているメロディとは、別の旋律をアコーディオンで奏でる。それが、とっても気持ちよかったことを覚えている。

今思うと、周りが気持ちよく・喜んでいる姿を支えている感覚が気持ちよかったちょっと周りとは違う、独自のストーリーを歩んでいる感覚が好きなのではないか、と感じている。

~不遇の中学時代~

中学校にあがり、順当にサッカー部に入る。
1年生から、割と上手い方で。先生からも、「上野は もうすぐレギュラーだな」と言われていた。そんな中、自分の中で大事件が起こる。

「いなり事件」
当時、少年ジャンプで「変態仮面」が流行っていた。頭にパンティーを被ってるヒーロー(?)。
https://j-books.shueisha.co.jp/books/hkhentaikamen.html


変態仮面

そんな中、サッカーやるためにスパイクに履き替えてた上野少年は サッカーの短パンのヨコから自分のおいなりさんがポロリ。

それを、斜め下から見上げたサッカー部の仲間が、「ひでのりが おいなり出してたー!」と学校中に言いふらした。その時だけでなく、翌日もそれからも。よりによって、その彼は悪ふざけが好きだったので、各クラスの黒板に書く。「おいなりさん」と。それを、私が追いかけて書かれた言葉を消す、という屈辱的なことが数度。今、振返ると結構ないじめな気もする。笑

そこから、僕は 幼少期のように人の目を気にする自分に逆戻り。
特に、女性とは 目を見て話せなくなるくらい、になってしまいました。(正確に言うと、覚えていないですが、そんな気がしている)

その影響は、恐らくサッカーにも出ていたと思う。
自信をもってプレーができない。

1年生からレギュラー候補と期待されてた自分は、いつまでもなれず。
逆に、フォワードだったポジションがどんどん下がり。
同学年の友人が、先にレギュラーになっていく。

そして、いつしか心からサッカーを楽しめていない自分になっていた。

サッカー部には、所属していたので友人達と一緒に夜遅くまで練習はしていた。けど、小学校高学年のときのそれとは違い、どこかやらされ感がある。

仲間外れにされたくないから、サッカーをやっているような感覚もあった。
2年後半からレギュラーにはなったものの、そのような状態で卒業まで至ったような気がする。

今思い返すと、僕が気にしていたから逆に周りが面白がってからかってきたのもあるし、中3くらいになると、女子たちも特段気にしていなかったと思う。が、私自身が過剰に気にしてしまって、動けなくなってしまっていた。
もっと、自分の失敗を笑い飛ばせるくらい強かったら 違ったかな、と思う。

中学は、サッカーでは不遇の時代だったが勉強は、好き、というか得意だった。特に好きだった強化は数学。

数学は、答えがあることは確かでそこに行きつくためには無限の方法がある。その方法を地道に考えるのが、好きだった。
教科書にのってる公式をそのまま覚えて利用する、というよりかは 公式は忘れていてもロジックを地道に積み上げて 正解する、みたいな。そのプロセスが楽しく感じていた

~新たな世界に飛び込んだ高校時代~

中学時代、自信をなくした上野少年は、高校から生まれ変わりたい、と思い電車で30分くらいかかる、周りで受験する人がほとんどいかない学校に行くことにした。狙い通り、この高校に行くのは同学年では誰もいない。まさに、生まれ変わるにピッタリの環境に行けることになったわけだ。

男子校だったことも、女性に対して苦手意識を持ってた自分にとっては、リハビリでいいな、と思っていた。

部活は・・・サッカー部に入部。
中学で不遇のときを過ごしていたといっても、私にはサッカーしかなかったので迷わず。

しかし、続かず。夏には、退部することにしました。
その学校は、強くて。心からサッカーを楽しめていない状態で続けることは、案の定出来なかった。

サッカーを辞めたことを地元仲間に知られることが嫌で嫌で。

「ひでのりが、サッカーを裏切った」と思われるのが、嫌だった。
友人から認められなくなるのが嫌だった。地元の駅から、自宅まで隠れるように自転車で帰っていたことを覚えている。

そんな状況で、高校時代を過ごすのは自分にとっても不本意。
折角生まれ変わるために、この高校に来たのに挫折を味わってどうする。

と、いうことで何か没頭できるものを探したい。
サッカーをやめた自分が、また没頭するものを見つけるとしたら、縁もゆかりもなかった分野にはまりたい。そんな思考が働いていた。

そこで出会ったのが、ブラスバンド部でした。
音楽は、小学校でやったアコーディオンで触れたくらい。何も詳しくない。
けど、自分が新しくはまれるのはコレだ、根拠のない思い込みを発動し入部することに。楽器は、ホルン。https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/horn/structure/structure002.html

理由は、遅れての入部だったので空いてるパートがホルンかトランペットしかない。トランペットは、購入が必要。と、いうことで消去法的でホルン。

しかし、やってみるとホルンが面白い。
金管楽器の中で最も難しいとも言われており、金管楽器の王様と言われたりする。(私は、そう聞いてました)

何が面白いか。

・独特な音色:トランペットのような分かりやすい「パーンッ」という音ではなくて、もっと深みがあって丸みがあって渋くて。その音色自体が、愛おしい。

縁の下の力持ち的存在:曲中で、華やかなメロディを吹くことは決して多くなく、なんなら曲中 裏打ちとロングトーンで終わる、ということもある。けど、たまに出てくる見せ場がかっこいい。有名な曲の一番盛り上がるところでは、ホルンパートがババーンと出てきてることが多い。この、縁の下の力持ち的な位置づけが私の性格に合っていたのではないか、と思う。

・難しい:上記のとおり、金管楽器の中で最も難しい、と言われてます。実際に難しい。だからこそ、地道に努力して上達していくこと。音で見せることにこだわっていた。

楽器だけではなく、ブラスバンドの魅力にはまった。
学校の往復は、ブラスバンドの課題局のMDを聞いたり好きなブラスバンドの曲を聞きまくり。休み時間には、ホルンのマウスピースをブーブー吹いてたり。

ブラスバンド全体の世界観も大好きで。
異なる楽器、個性が集い一つの世界観を創り上げていく。そのプロセスでは、曲の解釈に対しての対話があり、周りを気遣い活かし合う。そして、皆でやり切った後の爽快感。
その状態をつくりあげるために、個人の力を磨く。その責任感。

今の仕事でも大事にしている価値観が、このブラスバンドの経験の中に含まれている。

この没頭したブラスバンド、音楽への想いを地元のサッカー仲間にも知ってもらいたい。自分が、音楽に当時のサッカーと同じくらい没頭しているんだ、ということを伝えたい。

そう思って、高校3年の演奏会には 地元のサッカー部で一番仲良いSとHを招待した。それが、僕にとっては大きな出来事であり 中学までの自分を認め新たな道を自分で歩むことを肯定してもらえた瞬間だった。

~強烈な「やりたい」に出会った大学時代~

・Jazz、Saxとの出会い

高校は、大学の付属校だったので中央大学商学部にエスカレーターで入学。

さて、何をやるか。
ブラスバンドの仲間や先輩方の多くは、大学のオーケストラに入っている。ホルンに対して、情熱はあったけれども正直限界も感じていた。(特に、高音が出ない)

そして、折角大学に来たのに同じ人たちで固まるのはイヤだな、という想いもありオーケストラには入らないことを決断。

まずは、大学デビューをしよう。
と決めて、1年生の特権。色んなサークルの花見に参加。
流行りのオールラウンドサークルやテニスサークル、フットサル・・・などに参加して楽しくやっていた。

けど、、なんかむなしい。
毎日食堂で授業後から夕方まで雑談して1日が終わる。
何かに没頭したい、打ち込みたい。

そんな時、衝撃的な出会いがあった。
夏休みにタワーレコードで購入したCD。オランダのSAX奏者 ハンス・ダルファーの「Hyper Beat」。https://www.nicovideo.jp/watch/sm25790762

心が震えた。

山梨の実家からの帰り道、ディスクマンを通じて流れてきた音楽。
この曲を聴いた人たちは元気になるし、何よりもテクニックというよりもブロウしている感じが最高にかっこよかった。

「SAXをやりたい」
「こんな風に、かっこよく自分を表現したい」
自分の心の声が聞こえた。もう、身体が動きたくてたまらなくなっていた。

早速、翌日にブラスバンドで一緒にやってて、大学でJAZZのビッグバンドに入ってたトランペットのYにその話をしたら、「モダンJAZZ研究会」というサークルがあるから行ってみると良い、と教えてもらった。

大学のサークル棟という、明らかに古くて 陰湿な空気が漂うビルの最上階(4階)にJAZZ研の部室があった。そこに入ると、タバコを加えた女性がドラムを叩いている。
その近くでSAXを持ってる男性が一人。彼もタバコ吸ってる。当然、部屋の中は煙だらけ。SAXやりたい旨を伝えると、楽器があまりないから 楽器を用意して来て、とのこと。冷たい。

と、言うことでどうやったらSAXが最短で手に入るか、を考えた。
調べたら、30万くらいあれば買えるようだ。

まず、お金を稼ぐ必要がある。少しでも早く。
元々、居酒屋のバイトをしていたのに加えて、朝のバイト(パン屋)も始めた。それでも、貯金として30万貯めるには時間が掛かる。

と、いうことで楽器を貸してくれるスクールを探した。
すると、ピッタリのスクールがあった。目白に。そこでは、JAZZ SAXをやってる先生がいるとのことで、願ったりかなったりだ。

即、スクールに入ることを決めて、JAZZ研に初めて訪問してから2週間後には楽器持って部室に訪問。サークルに入ることになった。(はじめに会ったSAXの先輩は、驚いてた。笑)

JAZZ研に入ってからは、ブラスバンドの時同様 楽器漬け。
授業の合間や、休日も部室かサークル棟前の駐車場で朝から真っ暗になるまで練習してた。自分の中で好きなSAXプレイヤーは、ジュリアン・キャノンボール・アダレイや、スタンリータレンタイン、ベニーゴルソン。
テクニックに走るのではなく、1つ1つの音が太く、深く。サブトーンが利いている。音・ブロウで魅せるプレイヤーに魅かれていた。

僕も「音」で魅せられるプレイヤーになる
ことを目標に、理想の音を求めて日々練習していた。
上手いかどうかを置いておいて、楽器吹いてた時間だと 当時のサークル内でも一番だったのではないか。

誰でも出来る 音を出す、にこだわりをもち、自分らしさを出していく。
これも、自分の特性によるものだったのかな、と今は思います。

JAZZ研での活動は、自分の中で自信にも繋がった。
大学の学園祭、中央ステージで披露したバンドは、結構かっこよかったと思う。(アルトSAX、テナーSAX、ドラム、ベース、ピアノ)

JAZZの面白さは、正解がなく反応しあって皆で曲を創り上げる過程。
奏者それぞれの個性があり、それを互いに活かし、1つの曲を紡ぐ。

ブラスバンドも同様の面白さがあったが、アドリブが多くを占めるため、その要素が強くなると言える。

基礎がしっかりしてるからこそ その自由な舞台で羽ばたける。
そこに、ドラマが生まれる。感動・奇跡が生まれる。
そこがたまらない。

・人生を変えた北海道一人旅、海外への決意

あっという間に、大学3年生の夏休み。
周囲では、就活の話題がチラホラ。

一方で、僕は いまだにサークル棟前の駐車場でSAX吹いてる。
ふと、気付いた。「自分、外のこと全然知らないな」と。

そこで、夏休み中に一人旅をしようと決意。
北海道に2週間位いくことにした。(初の飛行機!)

この2週間の経験は、その後の私の人生に大きな影響を与えてくれた。

・札幌のユースホステルで出会った同学年の大阪の女性との2人で旅に
・小樽で出会った陶芸家さんの個展にご招待
・富良野のユースで出会った早稲田の学生が撮ってる映画に出演
・富良野の山で出会った「十年館」のマスター
・バイクや自転車で北海道を回ってる面白い社会人
・公園で観光パンフの撮影に、エキストラとしてモデルに。カメラマンのご自宅で宿泊。

などなど、旅に出る前には想像できないような出会い・時間を経験した。

当然なのですが・・・世界は広い。

そう実感した僕は、就職活動をこのままやるのがもったいない、、という気持ちが芽生えていた。そんな時に、母が「ワーキングホリデー」という制度があるらしいよ、と教えてくれた。

現地で働きながら、1年間海外生活が出来る。

その内容を見た瞬間、これに行きたい! と身体が反応しました。

・どうやったら、ワーホリに行けるのか
・いくらかかるのか、英語はどうやって学ぶのが良いか
・学校はどうなるのか、返ってきた後就職できるのか
など、気付いたら経験者や就職課、ゼミの先生などに聞きまくってた。
今振返ると、現状の外のゴール設定をして、そこからバックキャストで、どうしたら「行けるのか」「ワーホリを充実した期間に出来るのか」を考えていた。

自分が本能的にいきたい、と思えるものだったから 勝手に身体が動いていた。

でも、ここで最大の難所が表れた。父だ。

ワーホリには、大学4年生を休学していこうとしていたが、父が猛反対。
・行って意味あるのか?
・帰って就職できるのか?
・そもそも、なんで行くんだ?
・就職活動が嫌なだけではないか? など

父が言うことはもっともで、今 海外行きたいというなら 大学3年までの間に行けただろ。その間、楽器ばっか練習していた自分の責任だろ、就職しなさい、というロジック。まぁそのとおりだ。

けど、行きたい衝動に駆られてしまったのだから仕方ない。
ここで、行かなかったら後悔する、と直感で分かっていたので必死で自己分析して、父と話した。話しても、互いに感情的になるので手紙を3度くらい書いた。

最終的には、父も認めてくれて 大学を休学してオーストラリアに行くことに。最後は、応援してくれて空港まで送りに来てくれたことは、本当に嬉しかった。

~視野が広がったワーホリ時代~

西オーストラリア パース

念願のワーホリ。初海外。場所は、西オーストラリアのパース。
パースを選んだのは、日本人が少ない地域に行きたかったから。そして、シドニーのように メジャーではない方が 自分に合う、と思ったから。
「ちょっと周りとは違う、独自のストーリーを歩んでいる感覚が好き」という自分の特性も、はたらいていたのではないか、と思う。

北海道は、2週間。オーストラリアは、約10ヶ月間。
そこには、濃密な出会いや経験があった。

決まっていたのは、はじめの2ヶ月間 ホームステイをして語学学校に通うということだけ。それ以降は、自分で道を探して決めて動く必要がある。

語学学校を卒業して、はじめに働いたのは、現地の楽器屋さん。
音楽に関する仕事をしたくて。当然ながら、スタッフにもお客さんにも日本人はいない。楽器のことも、私自身SAXしか分からないし 楽器の詳しいことがわかるわけでもない。ましてや、英語もあまり話せない。

そんな中、自分が出来ることは何か。
考えた結果、倉庫の掃除だった。
楽器の倉庫があって、そこが汚いし整理されていない。
どこに何があるか分からない。

なので、スタッフの皆さんが使いやすいように整理整頓しよう。
と、いうことで ひたすら倉庫の整理をしていた。

仕事をはじめて、2週間位か。
はじめは、良く分からない日本人が来た、あまり話しかけてくれなかった現地スタッフが、整理整頓された倉庫を見た瞬間。私のことを「ヒーロー、Hide!」と叫んでくれた。笑

なぜ、ヒーローかというと、私自身が自己紹介のときに英律の「英」は、英語で言うとヒーローだよ、と言ってたからだ(英雄の英なので)。

そこから、スタッフがどんどん話しかけてくれるようになって。
ようやく仲間として認めてもらえた感覚を味わうことができた。

置かれた立場で、自分が貢献できることは何か。
考えれば必ずあるし、努力してる姿は必ず届く。
そんな信念が生まれた出来事でした。

もう1つ、仕事の話。
楽器屋さんの次は、バックパッカーズという旅行者が泊る宿で住み込みではたらくことにした。その宿は、私がオーストラリアに来て初日に泊った宿。たまたま、その日が誕生日の翌日で。宿泊してたお客さんがみんなでハッピーバースデーを歌ってくれた。いきなり来た海外初心者の日本人を受け入れてくれたこの宿が大好きになった。それが、ここで働きたいな、思ったきっかけだ。

求人は、出ていない。
けど、話してみなくては分からない、と飛び込みで話してみることにした。

そしたら、オーナーが僕のことを覚えてくれていて。(宿泊してから4ヶ月後位)
・宿泊時にみんなで歌ってくれたこと
・それに感動したこと
・この宿が好きで働きたいこと
・出来れば住み込みで働かせてほしい(住み込み出来たら、給料はいらない)
と率直にお伝えしたら、ちょうど夜間マネージャーが辞めるところだからいいよ、とのこと。奇跡がおきた。笑

思考は現実化する。正確に言うと、思って行動したら現実になる、することができる。これを体感した瞬間でした。

そこでの経験は、忘れられない。
・ヨーロッパの人たちは、長期で休みをとって旅行していること(それが普通)
・日本について、みんな興味を持っていること
・想いをもって、話せば通じること
・みんな仲良くなれること

もちろん、トラブルもありましたが(夫婦喧嘩の仲裁に入るとか、酒癖が悪いカップルを怒るとか・・・)全てが良い思い出。

宿泊してくれた方々に、最高の経験・時間を過ごしてほしい。
そのために、自分が出来ることをする。貢献したい。相手が喜んでくれることをしたい。

そんな想いをもって、働いてました。
宿泊されたお客様には、その想いが伝わってたのではないかな、と思う。
多くの人が、チェックアウトする際に 一緒に写真を撮ろう! と言ってくれたし、連絡先を交換して、オーストラリアの別の場所であった方もいた。

本当に、出会いに恵まれていたなぁ、と思う。

パースで、約半年過ごした後 オーストラリアの南側を4ヶ月間かけてラウンドへ。アデレード、タスマニア、メルボルンを経由してシドニーでアウトして、日本へ。

かけがえのない、ワーホリ時代を過ごさせて頂いた。
全ての出会いに感謝だし、送り出してくれた両親に心から感謝している。

~退路を断つことが出来た就職活動~

日本に帰ってきたのが2月。そこから、就職活動を開始。

選んだ軸は、下記3点。
・成長できる環境(特に、新卒時代は修行と捉えてた。厳しい環境にいきたい。)
・経営者が魅力的
・面接してる人、社員が魅力的

業界や規模は、あまり考えていなかったが、自然と第一志望はリクルートに。
リクルートは、途中で落ちてしまい、どうするか、と思っていたら 似た会社で「インテリジェンス」という会社があるよ、と言う話を聞き、説明会に参加。

当時の経営者、鎌田さんのパンチの利いた話や人事の方も魅力的。
2次面接で、社員の方が出てくれたのですが 直感で「この人と働きたい」と直感的に思った。

会社にこびず、自分の言葉で語っている姿がかっこよくて。
この時点で、この会社に行く、と決めていた。

不器用な私は、「この会社に行きたい」と思ったからには その他の会社で選考に進むのは、筋が通っていない、と考え、インテリジェンスの選考期間中に最終選考を控えた2社に辞退の連絡を入れた

今思うと、インテリジェンスで落ちてたら、と思うとゾッとする。

けど、それが「決断」。断つことを決める、だったのだと思う
その覚悟が伝わったのだろう。
無事、インテリジェンスから内定を得ることができ就職することになった。

~あとがき~

ここまでお読み頂きありがとうございました。
特に、高校時代以降で自分が「これだ」と思ったものに飛び込み、1つの技を磨く、没頭する動きが見え隠れしているな、と感じる。
そして、キャプテン翼の松山 光くんは、いまだに僕のヒーローだ。

自分が貢献できるところを見つけ、地道にやり続けること。
縁の下の力持ち的な働きが好きなのも、このころから出ている。

ブラスバンドやJAZZでは、仲間と共に理想のものを創り上げる、その過程が好きなのも自分の特性ではないか。

社会人になってからの自分は、また追って記していきます
※普段は、日常をつづるnoteにしたいと思っています

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