見出し画像

無料塾が人をつくる|第2章-1|皐月秀起

【第2章:生い立ち~着想の源泉を探る~】

サッカーが生活の中心に

私は1972年(昭和47年)に兵庫県宝塚市で生まれました。小さいときから体を動かすことが好きで、小学3年生のときにサッカー経験者の先生が赴任してこられ、それと同時に小学校にサッカークラブができたので、すぐに入部しました。火・木・土が練習日で、夕方まで校庭で練習し、それ以外の曜日は友だちと近くの神社で野球をしました。サッカーと野球の「二刀流」で、勉強は宿題くらい、ほとんど外で遊んでばかりの毎日でした。

転機は小学5年生のときです。両親からの勧めで、私立中受験専門の進学塾に通うことになりました。今でこそ私立中学受験は当たり前ですが、私の子どもの頃に受験をする子は35人学級で2割弱くらい。ほとんどが地元の公立中学に進学するので、私も何の疑いもなく公立に行くと思っていましたが、それなりに納得した上で塾に通うことになりました。

塾に通うといっても、5年生の間は塾に通いながら、サッカーも続けていました。しかし6年生になると、塾が毎日になるため、あえなくサッカー部をやめることになりました。いずれそうなるだろうと覚悟はしていたものの、実際にサッカーができなくなると思うと、さすがに落ち込みました。

「滑り止め」に見事に滑ってしまう

6年生になって塾一本の生活になりました。夏休みを越え、秋も過ぎ、年が明けると、受験が目の前に迫ってきました。本命中学の受験の前に、受験独特の雰囲気に慣れるため、とある他県の中学に、塾全員で入試を受けに行くことになりました。いわゆる「滑り止め受験」です。

新幹線で行き、ホテルに前泊。完全に旅行気分でした(笑)。翌日に受験。すごく手応えがありました。全く緊張せず、時間配分もうまくいき上機嫌でした。帰路につく間、塾の友だちと算数や理科の答え合わせを覚えている範囲でしていると、どうも友だちと答えが違っている。それも、まあまあことごとく違う(笑)。でも手応えはあったしなと思っていると、後日結果が来てなんと不合格。塾で100人くらい受けたのですが、不合格はわずか3人。その不名誉な3人に選ばれてしまいました。

本命の中学の受験は約1か月後に迫っていましたが、落ち込んだりはしていませんでした。「あんなに手応えがあったのに不合格なんて何かの間違いだ」と思っていたくらいですから、我ながら受験に対して緊張感がなかったなと思います。それでも、両親や塾の先生はあきれていたと思いますし、「本命はほぼ無理だろうな」と諦めていたと思いますが、私としては諦めることもなく、逆に力が入り過ぎることなく、それまでと変わらず淡々と過ごしました。

そして、本命中学の受験。1か月前のような手応えはあまりありませんでした。ただ、算数の最初の計算問題と理科の光合成の問題が比較的スムーズにできたことだけは覚えています。

算数・国語・理科と面接で終了、ではなく、なんと体力テストがある中学でした。私はひそかにここに勝負をかけていました。ここで目立てば、多少の点数上乗せはあるかもしれない。本気で思っていました(笑)。

私は、小学生時代最高のやる気とモチベーションで、50m走は他を5m以上引き離し、立ち幅跳びも50センチは遠くに飛び、ハンドボール投げは体育館の奥の壁にぶち当て、強烈な印象を先生方に残しました(多分)。

そして、結果は幸運にも「合格」。もちろんうれしかったですが、真っ先に頭に浮かんだのは「合格確率が限りなく0%に近い自分を合格させるのだから、塾ってなんてすごいんだろう」ということ。塾に合格の報告に行ったときに、大相撲の力士のような体格で、超怖かった塾長から「よかったな、おめでとう」と言われましたが、明らかに「お前が受かるか(苦笑)」と顔に書いていました。

卒業文集に将来の目標として、「塾の先生になりたい」と書いたのは本当に素直な気持ちでした。

#小説 #読書 #教育 #子ども #ボランティア #リーダーズカフェ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?