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マルと咲希 ~野良猫に出会って人生変わった話~ 第4話(小説)

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咲希は、わずかに残った、このままではいけないという想いに火を灯し、転職サイトで応募を続けていたが、未だ面接にこぎつけることもできずにいた。
 
派遣会社にも登録したが、先のことを考えた上での条件に合う仕事となると、中々見つからず、鬱積した日々が続いた。
 
「あ……」
 
飲みかけのペットボトルを、蓋が開いたままにしてあったのを忘れて、何気なく体を伸ばしたときにぶつかり、カーペットに湖ができた。
 
「この部屋、こんなに散らかってたっけ……?」
 
初めて見るような、妙な感覚。
そういえば、仕事を辞めてから、一度も掃除らしい掃除をしていない。あまり動かなくて済むように、いつも座っているソファの周辺に、たくさんの物が置かれている。
 
意識していなかったが、客観的に見ると、自分の思考がすべて形となって現れているようで、なんとなく、嫌な気分になった。
 
「……掃除しよ」
 
本格的な掃除をする気力はなかったが、ソファの周りやテーブルの上を片付け、掃除機をかけ、窓を開けると、柔らかい風が部屋の中を通り過ぎた。
 
目には見えないが、肌に触れたり、ハンガーにかかった服が揺れるのを見ると、風は確かに存在しているのだと分かる。
 
そして同時に、部屋の空気が淀んでいたことに気づいた。動かない自分、循環のない部屋……もし、空気に色があるのなら、さっきまでの部屋は、黒っぽい空気に覆われていたのだろう。
 
「よし、がんばらないとね」
 
無意識に声が出た。
気持ちを上向きにしようと、何かをしたわけじゃないが、心も空気が入れ替えられたらしい。
 
咲希は、今あるだけの力を使って応募書類を書きあげ、一気に5つの会社に送った。もちろん、会社によって、志望動機やアピールポイントは違う。基本となるスキルや考え方は変わらないが、相手によってアピールの仕方やポイントが変わるのは当然。
 
そんな当たり前のことさえ、昨日までの咲希は見落としていた。思考がそこまで及ぶ環境が、できていなかったとも言える。
 
「あ、そろそろご飯買いに行かなきゃ……」
 
久しぶりに、時間の経過を忘れるほど集中できたのは良かったが、いつの間にか日が暮れかけている。
 
部屋着からコンビニに行く程度の服装に着替え、スーパーに向かう。昨日は外に出る気すら出なかったし、おとといは前を向けなかったが、今は自然と、顔が上を向ける。
 
「あ、マル……マル……?」
 
ブロック塀の上に、マルがいた。
そこまではいつもどおりだが、様子がおかしい。
グッタリして、声をかけても顔を上げない。
 
「マル、どうしたの……?
 ……!! ひどい怪我……何があったの……!?」
 
マルは、左右の前足から血を流しており、綺麗だった毛並みも乱れている。咲希が近づくと、ゆっくり目を開け、威嚇の表情に変わった。だが痛むのか、元気な猫がするような姿勢は取れず、顔だけで威嚇している。
 
「マル、その怪我、ほうっておいちゃダメだよ……私が病院に連れて行ってあげる、ここからそんなに遠くないところに獣医さんがあるから、一緒にいこ……?」
 
そういって、ゆっくりと抱きかかえようとする咲希を、マルは今まで見たことがないほど、恐ろしい形相で睨みつけてきた。
 
「落ち着いてマル……一緒に……あ……!!」
 
抱きかかえようと、前に出した左腕を、マルは思いきり噛み付いた。
 
「マル、大丈夫……私、あなたに危害を加えたことないでしょ……? 私はあなたをイジメたりしない、だから、今だけもいいから、落ち着いて……」
 
咲希は、なんとかマルを抱きかかえ、そのまま獣医に連れて行った。左腕が傷んだが、やめようとは思わなかった。ただ、マルがいつものように凛とできず、弱々しくなってしまっているのが辛かった。
 
 
「これは酷い……左右の前足の爪が剥がされてます、全部ではないけど……それと、身体にアザ……幸いと言っていのか分かりませんが、骨に異常はない。けど、そうとう痛いはずです……」
 
獣医が言った。
 
「猫同士の喧嘩ですかね……?」
 
「いや……確かに、猫のツメはわりと折れやすいし、脱皮というか、生え変わりもします。けど、これは喧嘩や何かに引っ掛けて剥がれたものじゃない。人間が無理やり剥がしたんでしょう……身体のアザも、こんな大きなもの、猫にはつけられない……人間が蹴るかなにかしなければ……」
 
「そんな……」
 
「一応言っておきますけど、あなたを疑ってはいません。動物を虐待するような人間は病院につれてこないし、来たとしても、もっと淡々としています。気にするのは、治療費ばかりでね……」
 
「マルは、この子は、野良なんです……治療費なら私が出しますから、怪我を治してあげてくださいっ!! お願いしますっ!!」
 
「分かりました。とにかく治療しましょう。このままじゃかわいそうだ……」
 
マルは、暴れて抵抗しようとしたが、獣医は慣れた手付きで対応し、麻酔を打ち、眠っているマルを手際よく治療していった。咲希も、左腕の傷を見てもらい、消毒が終わると包帯を巻かれた。
 
「治療は終わりました。この子は少しうちで預かりましょう。すぐには治らないし、この子を虐待した人間が、またやらないとは限りませんからね……
前にも、飼い猫が外に出ているときに怪我をしたって、連れてきた方がいましたけど、その猫も、人間がやったであろう傷がついていました。どうも、そういうことをやってる人間が、この近くにいるのかもしれません……」
 
「酷い……なんで猫を……」
 
「動機は様々でしょうけど、仕事でのストレスとか、人間関係がうまく言ってないとか……そういう、自分の中に溜まった鬱憤を、自分より弱いもので晴らすっていう人間がいるんですよ……それが子供に行く場合もあれば、動物にいく場合もある。家庭だと、父親が仕事のストレスで奥さんに当たる。それが続くと、奥さんは子供に当たる、それが虐待になるわけです。どんどん、立場が弱いほうにいきますからね……」
 
「仕事や人間関係の悩みって、誰でもあると思うんです……けど、だからって子供や動物に当たるなんて……」
 
「ほんとうにね……」
 
「……あ、えっと、お支払いします。いくらでしょうか?」
 
料金を提示されて、咲希は一瞬ためらった。仕事をしていない、消費するだけの今の咲希にとって、かなり厳しい出費……しかし、マルをそのままにするわけにはいかない。
 
「ちょっと、お金下ろしてきますね……」
 
近くのコンビニでお金を下ろすと、獣医に戻り、支払いを済ませた。
 
「じゃあ、よろしくお願いします。また様子を見に来ます」
 
ひとまずマルの治療ができたのはよかったが、咲希の心には、別の想いが浮かんでいた。自分が大切に想うものを助けるために出費することへの躊躇や、わずかであっても、もったいないと思ってしまった気持ち……
 
マルは飼い猫ではないし、咲希には本来、治療費を払う義務も、助ける義理もない。しかし、そういう問題ではなかった。自分の無力さと、思わぬ出費による金銭的不安。その二つに、家を出たときの高揚した想いは、かき消された。

第5話に続く


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