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マルと咲希 ~野良猫に出会って人生変わった話~ 第1話(小説)

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「篠原! おまえまだページの更新終わってねぇのかよ。ったく……今日の17時までに仕上げろって言ったろ。いま何時だよ?」
 
今村健一(いまむら けんいち)は、デスクから乗り出すようにしながら言った。
 
株式会社シンシアライフは、従業員15人ほどのネット通販会社で、一つのフロアに商品置き場とオフィスがある。フロアの半分が、ウェブサイトの作成、更新や、マーケティングなどの、いわゆるパソコン作業をするオフィス、残り半分が、扱っている商品の置き場であり、発送する荷扱場でもある。
 
平均年齢は30歳で、活気がありそうだが、いくつかの理由で、フロアは全体的に空気が淀んでいる。もし空気に色をつけることができるなら、間違いなく濃い目のグレーだし、ニオイでいうなら、埃っぽくて鼻がムズムズするし、触覚でいうなら、ベタっとして、肌にまとわりつくような質感だろう。
 
「19時です……」
 
篠原咲希(しのはら さき)は、俯きながら言った。
 
「2時間も待ってやったのに、まだ終わんねぇとはなぁ……使えねぇな。終わるまで帰るなよ?」
 
「はい、すみません……」
 
咲希は、グリーンのプリーツスカートを、右手でギュッと握った。
 
雑貨を中心に、様々なものを販売しているネット通販会社、シンシアライフに入って約一年。入って三ヶ月ぐらいは、まだよかった。同時期に入った三人とともに、少しでも早く仕事を覚えようと、自分から残って仕事をして、社長にも役員にも評価され、コミュニケーションを重視する役員たちの意向もあり、他の同僚とともに、飲みに連れて行ってもらったりもした。
 
だが、今はもう、ただただ毎日が辛かった。
家に帰るのは、毎日23時ぐらい。朝は9時から。昼休憩はあるが、他の休憩は一切ない。あったとしても、取れる状況にならないだろう。
 
土日は、名目上は休みだが、与えられた仕事が終わらなければ、休み返上でやらなければならず、与えられる仕事も、工夫や時間管理だけではどうにもならない量で、価格の安さが売りのため、とにかく扱う商品を増やしてたくさん売らなければ利益にならず、売ったところで、未来が明るくないことは、経営に関わっていなくても感じられた。
 
一部の仕事を誰かに任せたり、外注したりできれば、仕事量も減らせるし、時間も増やすこともできるが、自社ですべて完結させるという信念がある役員たちに、そういった発想はなく、かといって、社内の誰も、同僚を手伝える余裕はない上、給料はお世辞にも良いとは言えない。疲弊するばかりで、何のために仕事しているのかも分からない状況に、咲希は心も体も疲れ切っていた。
 
だったら辞めればいい。
 
一度、友人から言われたこともあるし、今年の正月に、三年ぶりに実家に顔を出したときも、親はそう言って話題を変えた。
 
言っていることは分かる。間違ってもいない。だが、辞めて新しい仕事を探すとしても、
この会社にいるのは、それが難しい人ばかりで、そういう人間ばかりを狙って採用しているのだと、後に気づいた。
 
「篠原、これだけどな」
 
疲労感を隠せない顔を浮かべたままパソコンに向かっていると、山下彰(やました あきら)が肩に手をかけてきた。
 
山下は、最近会社にきた役員の一人で、社長の今村とは高校時代の先輩後輩にあたり、当時イジメにあっていた今村を、何かとかばっていた。高校卒業後は別々の道を進んでいたが、いくつかの会社で問題を起こして、行き場をなくした山下は、今村に連絡。高校時代のことを口にして、会社に転がり込んできた。
 
肩書きは、Webサイト管理・マーケティング部門、カスタマー対応部門、発送部門という三つの部門を束ねる部門統括者だが、罵声を浴びせる以外、特に何もしていない。
 
「あの、山下さん、ちょっと近いです……」
 
「ん? まあいいじゃんか。このほうが説明しやすいんだよ。それともおまえ、俺に説明されるのが嫌なのか?」
 
「いえ、そういうわけでは……」
 
「そうだよな。そんなこと言うわけないよな」
 
そう言って鼻の穴を膨らませると、山下は手に持った商品の箱を咲希のデスクに置き、体が密着するほど近くに来て、説明を始めた。
 
「この石鹸、なかなかいいみたいなんだけど、女性向けなんだよ。おまえ、自分で使ってみて、それを商品説明文にしろ」
 
「え……? でも、それは販売して、買っていただいたお客様の声を載せるほうが……それに、メーカーのページにも説明文はありますし……」
 
「バカ。買ってもらうにも、商品説明は大事だろ? メーカーのページを見て書いたって、他と同じになるじゃんか。だから、まずは篠原が自分の身体を洗ってみて、その結果を書くのがいい。そのほうが、リアリティがあるだろ?」
 
「そうかもしれませんけど、私は……」
 
「いいから使え。これはおまえにやる。使ったら言えよ?」
 
「はい……」
 
シンシアライフでは、こういったことが日常的にある。
本来こういう行為を制止するのも社長の役目であるはずだが、今村は”恩”があるせいか、それとも別の理由があるのか、特に何も言う気もないらしく、見て見ぬふりをしている。
 
社内の女性従業員五人のうち四人が被害に遭っており、全員がトラウマになるほど疲弊しているが、一人だけは、そもそも被害に遭っていない。
 
「良かったわね、篠崎さん」
 
挑発的な声で、安藤美和子(あんどう みわこ)が言った。
 
美和子は25歳で、咲希の一つ下であり、社歴一年半ほどのカスタマー部門の担当者。社内では最年少で、社長他役員には可愛がられている。お世辞にも外見は綺麗とは言えず、そもそもスキンケアやおしゃれにも気を使っていないのが、誰が見ても分かる。しかし、上には従順、下には高圧的という、社風にピッタリの人間性のためか、カスタマー部門では、よりキャリアの長い男性社員がリーダーではあるものの、実質的には美和子がリーダーのように振る舞っていて、役員たちもそれを黙認していた。
 
「……」
 
咲希が黙っていると、美和子はパーソナルスペースをあっさり越えて、パソコンを操作している右腕に当たるぐらい近づいてきた。
 
「いい香りの石鹸じゃない。使ったら感想、私にも教えてね」
 
見下ろしながら言うと、わざと腕に体が当たるように体の向きを変えて、自分の席に戻っていった。
 
ため息が出そうになったが、聞こえたらまた面倒なことになる……咲希は、なんとかこらえて、水分も補給せずにひたすら商品ページ作成に集中した。
 
「社長、ページ更新終わりました……」
 
20時を回った頃、咲希は言った。
 
「確認する」
 
「お願いします」
 
この沈黙が嫌だった。他の社員も当たり前のように残っているが、誰も口を開かず、キーボードを叩く音と、商品を梱包する音だけが響いている。
 
「……よし、いいぞ。次、今フォルダに置いたリストの商品、今日中にショップにアップしろ」
 
今村は、顔を上げずに言った。
 
「100個あるんですけど、今から全部ですか……?」
 
「あたりまえだろ」
 
「分かりました……」
 
商品の個別ページは、テンプレがあるとはいえ、画像の加工、商品説明、検索用キーワードなど、一つひとつ、それなりに手間がかかる。
 
咲希は、それほど仕事が早いわけではない。だったら、がんばって仕事が早くできるようになればいい。
 
最初はそう思っていたが、先月までいた先輩は、そうやって仕事のスピードを上げていった結果、給料は変わらず、仕事だけを増やされ、疲労で仕事が遅れれば責められ、それでもがんばり続けた結果、体を壊して入院し、そのまま退職してしまった。
 
「お疲れ様です、お先に失礼します……」
 
「おう、おつかれ」
 
結局、仕事が終わったときには23時を過ぎていた。今日はまだ月曜日。土曜日も休めるかどうか分からず、この状態が6日も続くと思うと、胃がチリチリした。
 
『そんな会社、辞めちゃいなよ。体がもたないよ?』
 
友人に会うたびに、そう言われた。
それでも、ようやく見つけた正社員の仕事だからと、ここまでやってきたが、労働時間が長時間過ぎて、友人と会う時間もここ半年で極端に減ってしまい、最近、何が正しいのか分からなくなる。
 
働き方が多様になり、派遣社員が増えた結果、正社員という肩書きがちょっと貴重に感じるが、無能な正社員もいれば、有能な派遣社員もいる。しかし逆に言えば、本当に有能な人間ほど、社員などいうものにこだわらず、フリーランスのように企業と契約して仕事をすることだってできる。時代は、自分が思うよりも大きく変わっている。それは分かっている、知識としては。しかしそれでも、社員であることに安心感を覚える自分もいる。会社が潰れれば社員も何もなく、正社員という言葉に釣られて入社した結果、劣悪な環境で仕事をすることになるのも珍しくない。責任は重くなるが、給料は変わらないか、場合によっては派遣社員のほうが高いこともある。
 
それを、責任ある立場にいることを誇りに思う、というような、それっぽい言葉でぼかし、給料は増やさない。
 
それに不満を言えば、辞めたければ辞めればいいと言われるが、それができる人なら、とうの昔に辞めている。しかしだからこそ、そういった会社には、有能な人間は残らない。
 
「はぁ……」
 
家に帰り着き、シャワーを浴びて、ソファに腰掛ける。
群青色のソファで、所々傷がついていたり、一部破けているところもある。実家にいたときから使っているもので、だいぶ年季が入っているが、これに座ると不思議と心が落ち着いた。
 
もうすぐ夜中の1時……
 
この時間から夕飯を食べるわけにもいかないし、そもそも食欲もない。疲れすぎて、体はエネルギー補給よりも、休息による体力の回復を要求しているらしい。
 
咲希は、その要求に従ってベッドに移ろうとしたが、もう5分だけ、このままゆっくりしよう……そう思っているうちに、そのまま眠ってしまった。
 
「……朝……?」
 
時計を見ると、目覚ましが鳴る約10分前。変な姿勢で寝たせいか、首筋が痛い。ベッドで寝直すには、時間が足りない。
 
「あれ……?」
 
立ち上がった瞬間、視界が傾いた。
部屋は寒くないのに、体は体温を取り戻そうと震える。
 
「風邪……?」
 
風邪をひいても、いいことはない。しんどいし、休めばその分、給料も減る。ただでさえ少ない給料が減れば、生活がさらにきつくなる。それなのに、なんとなく嬉しいと感じてしまう自分がいる。
 
「行かなきゃ……」
 
体調が悪いまま会社にいっても、同僚に迷惑をかけるだけ。しかし同時に、だから休む事が許されるという会社ではないことも、咲希はよく分かっていた。あの会社は労働者ではなく、奴隷を求めている……
 
「おはようございます……」
 
なんとか時間どおりに出勤したが、自分がどこにいるのか、よくわからないような状態だった。
 
「なんだ篠原、体調悪そうだな」
 
咲希が出勤してから2時間ほど経って、山下が会社に来た。
役員の中では一番早い出勤だ。
 
「ええ、ちょっと風邪を引いたみたいで……」
 
「顔色悪いもんな。震えてるぞ、寒いのか?」
 
「少し……え? ちょっと、止めてください……!!」
 
「なんだよ、温めてやってるだけだろ」
 
「いや……!!」
 
「そういうなって。
 な?」
 
「止めてくださいっ!!」
 
「いってぇ……何しやがるっ!!!」
 
思わず、両手で突き飛ばしてしまった。意識したわけではない。体を密着させてくる山下から逃れようと足掻いた結果だったが、山下にはそんなところにまで及ぶ想像力も、共感力もない。
 
「あ、すみません……あの……」
 
「ふざけんなクソがっ!! 人が心配してやってんのに、なんだその態度はっ!!」
 
「すみませんっ!! すみません……!!」
 
「何してる?」
 
出勤してきた今村が、怒鳴り散らす山下と怯える咲希を見比べている。
 
「社長……」
 
「篠原が俺を突き飛ばしたんだよ。体調悪そうだから、心配してやったのにな」
 
「そうなのか? 篠原」
 
「えっと、あの……」
 
「ハッキリしろ」
 
「突き飛ばそうとしたわけじゃありません……!! 山下さんが体を触ってきたから、それで……」
 
「ちょっと体触られたぐらいで騒ぐなよ。さっさと仕事しろ」
 
今村は呆れたように言うと、自分の席に座った。
 
「まて今村。こいつはまだ、俺にちゃんと謝ってねぇ。まあ、俺にも悪いところがあったかもしれないから、ちゃんと話す必要はあるかもしれないな」
 
山下はそう言って、咲希のほうを見た。
 
「じゃあ、会議室で頼みますよ。ここでガチャガチャされたら気が散る」
 
今村が投げやりに言うと、山下は、
 
「ああ、そうするよ。篠原、会議室にいくぞ」
 
と言った。
 
「え? 山下さんと二人でですか……?」
 
「俺とおまえの問題なんだから、あたりまえだろ」
 
「……」
 
今村は状況が見えていないかのようにパソコンを見ており、他の社員も、自分に火の粉がかからないように黙っている。美和子だけは、左の口角だけを上げて見ていたが、鼻を鳴らしてから視線をパソコンに向けた。
 
会議室は、小さな机が一つと、椅子が三つあるだけの、狭い部屋だった。採用面接のときは、もっとオープンな、パーテーションで区切っただけの場所を使うが、この小会議室は、社員の間では”取調室”と呼ばれていて、呼び出されることは、悪いことを宣告されることを意味していた。こちらの都合や事実確認などなく、魔女狩り裁判のようなものだ。
 
「さてと……」
 
山下は、奥側の椅子に座ると言った。
 
「篠原、俺はおまえを買ってるんだぞ、器用な方じゃないけど、真面目にがんばるからな。それなのに、あんな態度を取られると寂しいな」
 
足を組み、下から見上げるようにしている山下の表情は、怒りと笑みが入り混じった、罰ゲームのために作られたドリンクのように見える。
 
「ありがとうございます、でも、さっきのはちょっと……」
 
「俺に従っておけば、安泰だぞ? 今村も、俺の意見は聞くからな。さっきのも見たろ? 俺の後ろにいれば、アイツもおまえに強くは言えねぇ」
 
「え? あの……」
 
「だから、俺の言うこと聞いとけ、な?」
 
山下は立ち上がって、咲希の腰に右手を回すと、首筋に顔を近づけた。
 
「いや!! やめてっ!!!」
 
ドンっと、咲希は山下の体を両手で突き飛ばして、会議室のドアを開けた。鼓動は早くなり、口が乾く。目が無意識に瞬きを繰り返し、視界が定まらない。
 
「はぁ……はぁ……」
 
「うるせぇな、静かにしろって……」
 
今村が睨むように言うと、咲希は、
 
「辞めます……」
 
膝に両手をつきながら言った。
 
「あ? なんだって?」
 
「もう、仕事辞めます……」
 
「いつだ? 今か?」
 
「はい、もう無理です……」
 
「分かった。でも、もうちょっと待て。坂上がきたら、退職手続きをしてもらう。それまで待て」
 
随分とあっさりしていると、後から思ったが、そのときはそんなことを考える余裕はなく、自席に戻って坂上が来るのを待った。
 
坂上充(さかがみ みつる)は、シンシアライフの役員で、人事担当でもあり、No2の立ち位置にいる。山下の特殊性を除けば、社内で今村と対等に話せる唯一の存在でもある。
 
普段は今村ほどキツくはなく、おおらかだが、本質的にはほとんど変わらず、飲むのが好きで、よく社員を誘って飲みに行くが、美和子以外の社員は内心嫌がっている。
 
「おはざま~す」
 
欠伸をしながら、坂上が入ってきた。
 
「坂上」
 
「なに?」
 
「篠原の退職手続きを頼む」
 
「え? なんでそうなったの?」
 
「いろいろだよ」
 
不機嫌そうな今村の態度に、坂上は何か察したのか、デスクに座ってパソコンを立ち上げると、パチパチと叩いて、退職手続きのための書類をプリントアウトして、咲希に渡した。
 
咲希は、書類を受け取ると、無言で必要事項を書き込み、坂上に返した。今村は、坂上が来るまでの時間で、咲希が落ち着きを取り戻し、仕事に戻ると思っていたようだが、咲希にその気はなく、手続きを終えると、失礼しますと言って荷物をまとめた。
 
背後から山下の視線、周囲からは社員の視線を感じたが、唇を噛みながら開きっぱなしになっている入り口へ歩く。
 
「辞めちゃうの? もっと一緒に仕事したかったのに」
 
入り口で靴を履いていると、美和子が話しかけきた。
 
「……」
 
「篠原さんなら、きっとすぐに次の仕事も見つかるよ。がんばってね」
 
「……ありがとうございます」
 
わざとらしい美和子の言葉に、一応の礼を言うと、咲希は会社を出た。
 
 
 
-2-
 
翌日。
目覚ましを切っていたにも関わらず、いつもどおりに目が覚めた。一瞬、そのまま準備を始めようとしたが、辞めたのだということを思い出し、まだベッドに横になった。

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二話目に続く


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