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感情とチャネル

さいきんなんとなく立ち読みしていた雑誌で、作家の羽田圭介が「表現のプロを目指す人はSNSなどの自分から発信できるアカウントをすべて削除すべきだ、すぐに」(大意)というようなことをエッセイで書いていた。

まあ、言わんとすることは分かる。彼の言いたいことは、(1)創作意欲を維持するには溜め込んで発酵させることが必要だ、(2)創作意欲は大抵の場合、代替可能だ、という二点に集約されるのかな。

でもなあ。創作意欲があるから創作するわけじゃない、と僕は自分に関しては思っていて。というか自分が創作しているとも思ったことはないし、創作したいと思ったこともない。

言いたいことは言わせてくれよ、とは思う。伝わろうが伝わらなかろうが、黙って殺されろ、という命令には従わない。死ぬまでギャーギャー騒いでやる。と思っている。

ただ、そこで騒ぎたいこと、感情の発露、ふざけんなばかやろう、みたいな「心の叫び」みたいなことと、制作(ああ、そうだ、僕は創作しているのではなくて制作しているのだ、と感じているから創作意欲ということばに反応してしまうのだった)は僕にとってはチャネルが違う。

ええと、僕はこのnoteもやっているしInstaもやってるしブログもやってるしFacebookもやってるし500px(写真に特化)とか現代詩フォーラム(詩に特化)とかSoundCloudとかMixCloudとかのジャンル特化型のチャネルも持っているし、はてなブックマークで主に暴れまくっているけれども(笑)チャネルの最下流にTwitterがあって、ぜんぶじゃないけど主要にはあちこちで発散した残り滓をTwitterという下水道みたいな場所に流れ込むようにしている。汚物ですよね、Twitterは。

Webに限らず他に俳句とか短歌の投稿もしていて、ああ、これを例にすると分かりやすいか。僕は順番としては俳句を先にはじめて、短歌にも関心はあったのでさいきんは短歌もやるようになったのだけど、頭が短歌モードになっているときは俳句はできないですね。その逆ももちろん。あれー、変だなー、と思っていたらモードが逆だったとか、よくある。

それで何が言いたいかというと、そうそう、羽田圭介のエッセイだった。僕はもちろん小説を書きたいし、じっさい書いているし、羽田圭介の小説を読んで、新潮社はなんでこんなものを掲載して僕のものは載せないんだ物理的に破壊してやろうか。ということを日々思っているけれども、僕が書きたいと思っている小説からは、僕の「思い」だとか感情とか実存とか意志とかを可能な限り排除したい、と思っていて、なんでかというと、ついうっかりすると、そういうものが紛れ込んでしまうからですね。自覚できないままそういう「不純な」要素が入っているという事態には、僕は耐えられない。

じゃあSNSとかをやっていると「思い系実存」を洗い流せるかというと、べつにそういうことでもなくて、自分の中から「思い系実存」が流れ出ていく、そのチャネルに対して自覚的である訓練にはなる、と思っている。

今のは分かりにくかったと思うので言い換えると、短歌に見合うモチーフ(文字通り「動機」)というのは、俳句には詰め込めないんですよね。なので、ああいまこういうモチーフが念頭にあるなあ、これはそうだな、俳句だな、みたいな判断ができるというのは時間短縮の意味で大事なような気もするし、逆に、さあ俳句を書こう、というときには俳句に見合うスケールのモチーフが到来するように待ち受けることもできる、というのは大事なような気もするのですね。

で、唐突だけど、太宰治の作品で僕がいちばん好きなのが「如是我聞」という、死によって中断した時評連載で、これはもう、太宰の罵倒芸が存分に発揮されている傑作です。主に志賀直哉が罵倒されています。太宰にとっての「如是我聞」って、僕にとってのはてなブックマークみたいなものだったんじゃないかな(笑)。

いや、羽田圭介は、デビュー前の「創作者」志望者に向けて言ってるんで、太宰の晩年の罵倒芸は関係ないっちゃ関係ないのだけど。でも、例えばデビュー作に「人間失格」も「斜陽」も「女生徒」も「トカトントン」も「如是我聞」も全部入れたい、みたいになったら、それをうまく統制できる技量のある人なら問題ないかもしれないけど、僕は無理だね。

そういうことが言いたかった。「言い訳でしょ」って言われたら、うるせえよ、ってしか言いようがない。なんか伝わりにくいはなしでごめんなさい。

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