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27. 苦しい選択

 私の人生において一番辛かった数ヶ月が始まった。

 空港に迎えに来たデイビットはとても優しく、お寿司を食べたいという私を、サンフランシスコでは有名な寿司レストランに連れて行ってくれた。美味しく食べてレストランを出たその直後だった。「なんでペルーで子供を降ろしてこなかったの?その方が安いのに?」

 デイビットのいつものブラックジョークとも、本気ともつかないその言葉に、普通の精神状態だったら笑っていたのかもしれないが、一瞬で心が凍りついた。思えば、そこからカードはひっくり返されたように思う。

 話し合いが始まり「子供は一緒に育てるけれど結婚はしない」という考えに納得し、ドキドキしながら、父に連絡をとったところ「結婚もしてないのに子供だと?」と、烈火の如く怒鳴られ、そのまま勘当となってしまった。電話を置いて、デイビッドにその事を報告すると、翌日、何を思ったか、一緒に育てるという話はなくなり、子供を堕ろすように言われるのだった。 皮肉にもちょうどクリスマスだった。友人達の前で酷いことを言われ、どうしてそういう物言いが出来るのか理解に苦しんだ。『一番、優しく接して欲しい時なのに?』

 挙げ句の果てにニューイヤーズイブには、別行動を強いられ、新たに別の女性を見つけたから私に早々に家を出ていく様に言うのだった。心無い言葉に唖然とし、怒りと悲しみで一杯になりながらペニー達に助けを求め、しばらくゴッデステンプルにいることになった。

 生むか生まないか常に葛藤がありながらも、3人のプロジェクトに向けて製作に没頭した。主にメロディーラインは私が弾きつつ、コンピュータを使っての音楽製作の基本をディランが作業するのを見ながら学んだ。ビデオ撮影でのモデルもこなし、毎日が充実していたが、日々が過ぎていくという事は、決断のタイムリミットが近づいていると言う事でもあった。

『どうする。どうしたらいい?』

 経済的不安、アーティストとしての活動のこと、パートナーや家族の協力を得られない、どう考えても、自分にはシングルマザーになる器量も度量もない気がした。ある朝には『諦めよう』と思い、ある朝には『全てを乗り越えてやれる』気がした。

 世界中の女性の友人達がメールで「ここに来て育てたらどうだ」とか「シングルで子供を育てるのはそんな柔なものじゃないし、よく考えて」などのアドバイスをくれた。ディランは自分がペーパーマリッジして、ペニー共々みんなで育てることすら申し出てくれた。せっかくベイビーのスピリットは私を選んで、私の元に来てくれたのに、ちっとも幸せになれない自分がいた。

 1ヶ月ほどして、デイビットとの話し合いの為にサンフラシスコへ赴いた。友人宅にいながら、あっちに揺れ、こっちに揺れる自分がいた。デイビットとの共通の友人からは「あなたがどしっと構えて、どうするかさえ決めれば、デイビットは絶対、協力するし、あなたの父親もベイビーの顔さえ見れば、可愛がってくれるわよ。心配しないで」そうは言っても、デイビットも父も、完全に他の一般的な男からは、ずれているから、当てはまらないと思ってしまうのだった。

 ほとほと精神的に参っていた。夜は考えまくって眠れない。決断が遅くなれば、覚悟もないまま産むしかなくなる。『お願いだから誰か助けて!』その叫びが頂点に達した頃だった。まるで私の声が届いたかのように翌日に弟から連絡があり「お父さんが電話しろってさ」との伝言があった。嬉しかった。

「一度、とにかく帰って来い」父と言葉を交わしただけで不思議と勇気が湧いた。安定期に入らないうちは飛行機に乗れないことを説明し『何があっても父は私を愛してくれてるんだ』という安心感が、私に少し余裕をもたらした。後で聞いたところによると母が夢枕に現れたらしい。そうか。それはそうだ。今思えば、父だって、きっと苦しんだだろう。勘当になって連絡もなく『なんて冷たいんだろう?男親や男兄弟なんて、そんなものなんだ』その1ヶ月はそう思っていたし、そこまで考えが巡るような冷静さも全く欠いていた。

 私は、とうとう産む方向で、デイビットとの話し合いに挑んだ。女性ホルモンのなせる技だろうか。プライドは吹き飛んでいたし、ベイビーのためなら自分の人生のことは諦めて、なんだってやれる気がしていた。どうしたら不法滞在にならず、アメリカで無事ベイビーを産むことができるのか、弁護士とも相談をした。

   国籍というのは、国によって制度が違う。アメリカでは、アメリカで生まれると親がアメリカ国籍でなくとも自動的にその生まれた子はアメリカ国籍になる。日本では、両親のどちらかが日本人であればどこの国で産んでもその子は日本国籍になる。

 妊娠中で長距離の飛行機は乗れないという理由で出産するまでは、ビザなしでアメリカにいることができるらしかった。ただ、その間にビザが用意できなければ、私は産んだと同時にアメリカを出なくてはいけない。不法滞在になってしまうからだ。

 今では世間的に認知され、素敵なシングルマザーも沢山いるが、当時、日本でのシングルマザーはそこまで一般的ではなかったと思うし、世間の風当たりが強いというイメージが自分の中にあった。なので私は、出来ることなら、そういうことがあまり気にならないアメリカで育てたかったのだ。国籍も2つ取れて子供が大人になったら選べるから、何にせよ産むならアメリカで産む方がいい。

「お願いだからペーパーマリッジだけでもして欲しい」まさか自分が自分の人生においてこんなセリフを言うことになるだなんて思ってもみなかった。デイビッドは私に対して、耳を覆いたくなるようなセリフを次々に放つようになっていったのだが、この時も例外ではなく、お腹のベイビーには絶対聞かせたくないことを言われて、もう会いたくもなかった。

 結果を言うと、デイビッドは全く協力的でなく、婚姻届のため市役所へ出向くも「やっぱり嫌だ」と言って帰るということを2~3回繰り返した。一旦は産もうと決心した私だったが、結局中絶することを選んだ。誰かの協力なしには進められない状況よりも、一人で決めて行動出来ることを選ぶことにしたのだ。この先、こんなことがまたあるだろう度に、彼に頼りたくもなかった。あの時4ヶ月に達していたから違法でやってくれる病院で行なった。アメリカにはそういう病院がたくさんある。

 今となっては、理想通りにいかないことが人生には多々あることを理解しているし、それが人を含んでのことであればなおさらであることも承知しているのだが、この頃は『理想通りでなければ絶対に嫌だ』という思いがとても強かった。幸せな家庭が欲しかった。両親が仲の良いカップルで、二人が愛情を持って子供を育てるのでなければ意味がないと思っていた。

 と同時に自分が果たして親になれるのか?という不安、シングルマザーにはなりたくないという気持ち、相手の気持ちを無視した自分よがりな望み、それらが全てを招いたことが、今振り返れば一目瞭然だ。本当に産みたかったのなら、デイビットもペーパーマリッジも、家族から反対されようがどうしようが関係なかったし、家族が欲しかったのだったら、家庭を作ることから程遠い男とはもっと早くに別れるか、きちんと話し合うべきだったろう。デイビッドと一緒にいることが何より大事だったのなら、彼の人格を尊重するべきだったろう。

 結婚や仲の良い家族に漠然と憧れただけで、結局、私は本来の自分というものが分かっていなかったのだと思うし、結婚が幸せでゴールというステレオタイプな考え方をして、自分の人格も、デイビッドの人格も考慮していなかったのだと思う。

 何にせよ当時は「あの男の子供は産めない」とすぐに気づいていたのに、悩むことや難しい状況にすることで、どうしようもなかった選択という風に自分を納得させ、罪悪感から逃れたかったのかもしれない。


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