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29.踏み外した階段

 戻った東京で2ヶ月ほど毎日泣き暮らした。ごく親しい友人には事情を話したが、パーティーシーンを通じた友人や知り合い達には”人生に負けた”ような気がして、パーティー会場で会っても、そういう話は言えず終いであるばかりか、”元気で幸せそうな自分”を装った。

 ちょっと前に始めたブログでも、落ち込んだ様子はおくびにも出さず、ボーイフレンドと別れたけれど「私には音楽があるから大丈夫だ」と陽気に綴った。そうやって強がってはいたが、街中で妊婦やベイビー連れの女性を見る度に自分を不幸だと思い、怒りと悲しみが繰り返し湧き、時には一人で泣きわめき、頭がどうにかなりそうだった。

 パートナーとなる人物を見誤ってしまったばかりか、シングルマザーになることを拒んだ自分は”人生の階段を踏み外した”と思っていたし、理想通りにいかなかった憤りがあった。理想通りでないと、悲しくなったり腹が立ったりしてしまう。この思考は、”幸せ”を遠ざける。そのままを、ありのままを受け取って、感謝することができない限り、幸せからは程遠い。

 揺るぎない幸せというのは、負の出来事に対して、周りの所為にするでなく自分の選択の結果として責任を取れる精神的に自立した大人のものなのだ。だが当時の自分は違った。スピリチャルな学びは積んでいるつもりだったし、一体なんで自分がそんな目に遭ってしまったのかすら分からなかったし、過去生か親からのカルマではないか、とさえ思い、責任の所在を何か自分以外の所為にしていた。

 黒い感情が渦巻き、内側から精神が蝕まれていたにも関わらず、一歩外に出れば、その嵐のような内面は全く表に出すことなく、にこやかな自分を演じた。当時、どれぐらいの人が、その私の壊れた様子に気付いたのか、気づかなかったのかは分からない。

 ただ、自分でも思いがけず、東京のパワーが最高の癒しになった。もう住みたくないと思っていた場所だけれども、やはり大好きな街だし、帰って来る自分の居場所はそのまま確保してあったし、近所の表参道、渋谷や原宿に出れば、いろんな刺激も受ける。古くからの仲間達がオーガナイズするパーティーに出向いたりプレイしたり、たくさんの友人達にあっておしゃべりすること、DJというのはほぼ友人知人だったりもしたし、音の良い大きなハコで踊ること、プレイすることが、私には何よりの薬になるのかもしれなかった。

 家の近所のDJバーで、現在、作詞家で渋谷の人気DJバー’花魁’のプロデューサーとして活躍するカワムラユキちゃんが、私のためにパーティーも開いてくれた。私の事情を知っていた彼女は、私を元気づけてくれるためにそれを取り仕切ったのだと思う。本当に有り難かった。彼女も’ブレッツ’で出会って以来の友人で、私の人生の最重要ピンポイントな場面でいつも一肌脱いでくれる存在だ。

 クラブやパーティーは、私を育てたホームグラウンドであり、そこにいる仲間は家族であり、音楽を通じて、プレイすることダンスする事は、私にとって何にも勝るセラピーであり、友人達に囲まれて笑えば大概の感情のことは片付くのかもしれない。

 元気を少し取り戻した私は、5月の終わりにはボーダークリークのペニー‧スリンガーの元へプロジェクトを仕上げるために戻った。ペニーの住むゴッデス‧テンプルと名付けられた敷地内には、本格的な映像スタジオと音楽スタジオがあって、その名称を’ブルーロータス‧スタジオ’と言った。

 100平米ほどの内装だったように記憶しているが、背景を後から合成するクロマキー撮影ができるよう、床から壁、天井までブルーで仕上げられ、その一角にガラスで区切った音楽スタジオがあった。ディランと私は、その音楽スタジオにて、毎日、曲作りをし、大体のアルバム像が見えてきてから、ペニーとディランの二人が私を撮影し、映像を作り、いよいよ最後の仕上げであるマスタリングを誰に頼むかという話になった。マスタリングとは、録音音楽の最終工程で、音量や音質、音圧を調整し市場用にする作業で、マスタリングの良し悪しで同じ音楽が別物になる程、影響のあるものなのだ。

 サンフランシスコからイビサに移り住んで、マスタリングスタジオをやっているソニック‧ビスタ‧スタジオの名前がディランから上がり、イビサへは3ヶ月のアメリカ滞在期間が間近に迫っている私が直接音源を持って行くという話になった。ディランが元々友人で知っていることもあり、話はスムーズに進み、先方もデモを聞いて、楽しみにしてくれていた。

 旅行会社にメールすると、サンフランシスコ~ニューヨーク~ロンドンを経由して東京までという片道のチケットがあった。その旅程を決めるために、’ペンジュラム’を用いた。ペンジュラムというのは、クリスタルに鎖がついている振り子で、潜在意識や直感を引き出してくれる。使い方はいたって簡単で、振り子を持って、イエスかノーで答えられる質問をして、振り子の動きで答えが導き出される。

 何度、聞いても、ロンドンを出る期間が3ヶ月後となる。『きっと何かがあるんだろう』と思い、8月の終わりにサンフランシスコを出発し、ニューヨークに3日滞在、ロンドンから日本への帰国は、ペンジュラムが示す通り11月下旬の日程を抑えた。ロンドンからイビサへの飛行機は、この頃からようやく、ウェブでエアチケットが買えるようになって来ていて、初めてEチケットなるものを購入した。

 出発当日になって、アルバム楽曲のデータを受け取ろうとしたところ、ペニーが、契約書が出来上がってサインをするまで渡せないということを言い出した。「そんな、、。楽曲は自分の子供みたいなものなのに、、。なんで?」何度食いついても、彼女もペンジュラムに従っていて涙を流しながら「渡せないのよ」というのだった。全くもって解せない中「弁護士から契約書が送られて来たら、すぐにイビサまで送るから」という約束の元、私は2人に見送られニューヨークに飛んだ。

 当時、主にアーティストたちが使っていたMY SPACEというソーシャルメディアがあり、そこで知り合った’ブルックリン’のヴィジュアルアーティストグループが、マンハッタンのダウンタウンのクラブにDJとしてブッキングしてくれて、スタジオ兼住居にも泊めてくれた。

 このMY SPACEでは、実にいろんなアーティスト達と交流があった。一般の人は、そこにはほとんどおらず、ミュージシャンやDJ、イラストレーターや映像作家などが大部分を占めていた。アーティスト同士で、コラボレーションの話が持ち上がって、実際、何人かとコラボレーションもしたし、ファーストアルバムのCDカバーのグラッフィックアーティストもそこで見つけた。

 ニューヨークを後にした私は、ロンドンに飛んだ。3日間の滞在で、旧知の仲のオーストラリア人の女友達サニーが、この時期から、ちょうど東京からロンドンに移り住んでいて彼女と過ごした。奇遇にも彼女もイビサに同時期に行くことになっていて、私達はイビサでも会うことにしていた。

 レニー‧イビザーレとは連絡を取っていて、敷地内の彼の家の隣の”離れ”の家にステイさせてもらうことになっていたが、すぐには向かわず、イビサタウンのホテルに2泊ほどした。

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