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5. バーニングマン1999

 お店を一ヶ月、留守にする為の準備をして、サンフランシスコに飛んだ。飛行機に乗るまでの最後の日々は、とにかく寝る暇がないくらいに、お店と週末の野外のギグの数々をこなすのに忙しかった。着いてすぐ友人宅リビングのソファーに倒れ込んで、そのまま丸一日は寝ていたと思う。コージに後日談でその話を何度か持ち出されるたびに恥ずかしかった。「いろんな人達が出入りしてるのに、君がびくとも動かずに寝てるから皆びっくりしてたよ」

 そこは、アメリカ人とイスラエル人カップルが東京とサンフランシスコを拠点に創刊していたバイリンガルマガジンのオフィス兼住居で、グループとしてRVを2〜3台借りてバーニングマンに行くために、世界各地からいろんな人達が集まってきていた。大きなフェスティバルのオーガナイザーやカメラマン、ミュージシャン、ディストリビューターなど。

 フェスティバルは1週間、砂漠の中で開催される。お金は流通せず、お店はない。とはいえ、2001年頃からセンターキャンプで飲み物や氷が買える様になっていた気はする。食料や水、必要なものは全て調達して行くのが基本。昼間は灼熱、夜は極寒だ。時々ものすごい砂嵐が来る。ひどい時は吹雪の様に砂が吹き荒れるし、それがいつ来るかもわからないからマスクとゴーグルが出かける時は必ず必要だし、キャンプも飛ばされない様それなりにしっかり建てつけなくてはならない。

 「傍観者になるな」というのが、キャッチフレーズになってるくらい全員何らかをシェアするのがバーニングマンの精神で、フェスティバルの最終日の夜に、自分の中のネガティブな心を燃やす象徴として、”マン”が燃やされる。 

 行ってみて、ただただ、ぶっ飛ばされた。驚嘆の連続。その規模、奇想天外でカラフルな人々、建造物、アートカー、未来っぽいのからマッドマックス調、裸に羽に、チェーンに、ビクトリア朝、とにかく個性的でエキセントリックで自由極まりない。今まで見てきたフェスティバルとは全く持って世界感もレベルも違う。今では、情報はもちろんのこと写真やビデオが出回っているからなんとなく想像もできただろうけれど、当時の私はなんの予備知識もないままに行ったので、インパクトは相当だった。
 
 70マイル、キロ数にして110キロほど広がる’ブラックロック’という、湖が干上がった砂漠の南側の一部が会場なのだが、巨大な人型”マン”を中心に街が円形状に広がる。そこは1週間だけ、”ブラックロックシティ”となり、”プラヤ”と呼ばれる。99年当時は、3万人には満たなかったのだが、最後に行った2004年で3万人を超え、2007年頃にはソーシャルメディアの普及により6万人クラスのフェスティバルに急成長し、IT長者の遊びの場にまでなっている様だ。

 話を当時に戻すと、情報は限られていたから日本人はもちろん少ない。ほとんどがアメリカ人で、しかも西海岸の人々がほとんどの割合を占めていた。日本人にも知り合い以外には会わなかった。そんな中、今回オーガナイズをしてくれたサンフランシスコ在住のバイリンガルマガジン日本人クルーの一人が作って来た派手な着物ドレスを着て、コージが日本で購入してきた赤と紫の和傘で、彼女と二人で対で歩こうものなら、当時はそんな日本人がいないから、目立ってあちこちで写真を撮られた。というわけで、ささやかながら”歩くアート”としてきちんとバーニングマンに参加したことになったと思う。そして、この傘は暑い砂漠の日差しを避ける日よけとして抜群の功を果たし、その後も、私のフェスティバル必須アイテムになった。

 当時の私の英語はかなりの片言で、出来ないに等しいレベルだった。それまで外国人の友人らもいたし、お店でも数人雇っていたし、旅行にも色々出ていたけれど、東京を離れる気が全くなかったので、片言で済ませ、きちんと喋るつもりなどさらさらなかった。だが、それはここでは通用しない。みんなに訳してもらうばかりにもいかないし、第一もどかしすぎる。そして、面白そうな人々と接触がある度に『ああ、もっとコミュニケーションが取りたい』と初めてそう願ったのだった。

 ただ喋れなくとも、バーニングマンでは、あちこち動き回るだけでも十分に楽しい。シティーは毎日、膨れ上がっていくし、大きなアートの数々や至る所で色々なことがハプニングしていて、もちろん、至る所で音楽がかかってるしダンスできるし、人々のキャンプすらも私の目を奪った。ベッドやソファー冷蔵庫を持ち込んでる輩もいるし、もう、まるで家の様なものを建てちゃってる人もいるし、トラックのトレーラーがキャンプな人もいるし、何せ、アメリカだけあって何もかもスケールがでかい。自転車があれば、もっと広い範囲で行動できるし、様々なアートカー、デコレーションを施したり改造された車やバスが通るから、それにジャンプして乗っかっても良い。

 会場は広いけれど、きちんと各ストリートにわかりやすいアドレスがあるので迷うことはない。中心から水星、金星、と惑星の順序、そして、放射線状に時計の様に10時から14時となっている。「私の住所は火星の7時半よ」ってな具合だ。そして、ブラックロックラジオなるものが放送されているからラジオで様子を聞けるし、新聞まで毎日発行されてるし、本当にシティーなのだ。

 そのシティーの様子は、写真じゃ全く収まりきらない感があって、ビデオをずっと撮っていたいくらいだった。確かあの頃、デジタルカメラでなくてフィルムカメラで撮ってたから、撮りたいものを撮りまくることはできないし、全てを見るのも体験するのも無理なのだが、とにかく私は体力の続く限り、あらゆるものを見て回り続けた。とにかく、それまでの価値観を根底から覆された。価値観を初めて覆されたのは、80年代中期に出向いたインド旅行でだったのだが、それとは全く別の価値観の覆され方で、自分が井の中の蛙だったことを思い知り『こんな風になりたい』という漠然とした憧れを抱いたのだった。

 歩き回ってダンスして、夜遅く疲れ果てて帰ってきて眠り、そしてまた翌日タイミングの合った誰かと繰り出していくルーティーン。最終日の夜、見たこともない様な大きな火で”マン”が燃やされ、フェスティバルは翌朝終了し、色々なものが燃やされた。1週間だけのために『資源の無駄遣いだ』という罪悪感が無きにしも非ずだったのだが、それ以上にこのフェスティバルが与えてくれた何か大きなものの方が優っていた。巨大な”砂曼荼羅”とでも言うべきか。

 創り上げた物に執着を持たず手放す。創り上げるまでの過程が大事なのである。まるで人生そのものじゃないか、、。

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