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35. 幸せの三角ハウス

「ある朝起きて庭でお茶を飲んでいたら、このエンジェルが紛れ込んで来た。それから僕らはずっと一緒にいるんだ」

 隣の住人の名前は、ラン。これは、彼の友人達から私たちの”馴れ初め”を聞かれた時の彼のセリフだ。そう、それから一年間、私達は一緒にそこで暮らした。

 「ねえ、何で、ここに来たの?」「ええ、、、っと、、、。それは、、」

『なんて言えばいいんだろう、、だって説明が長くなってしまうじゃないか』言葉に詰まっていると「僕に会うためだったんじゃない?」ランは彼特有のとびきりの笑顔でそう言った。

 確かにそうかもしれなかった。運命ってある。あの日、爆弾テロがあったから。あの日、ビーチにオーガナイザーがいて私をDJに誘ったから。あの時、次のDJが来なかったから、、。あの時、あのDJがいたから、あの日、、、。あの時、あの人がいたから。あの日、あの時、あの月を見たから、、。

 "あの日"や"あの時"は、ずっとそうやって過去に遡っていくし、ずっと未来までの道のりを決めていく。あの時から見たら未来である”今”から振り返ると、答え合わせをしているかのように、すべての出来事は起こるべくして起きたことがわかる。

 人生はダンスのようなものだ。その時の音楽に合わせて踊ればいい。今に集中して、音から音へ。悲しい曲、楽しい曲、幸せな曲、激しい曲、静かな曲。そして自分を踊りきれば誰ともぶつからない。自分のステージやスペースが確保されていて、それは二つたりとも同じものはなく、全体の中の自分の役割に導かれる。そして会うべく人には会う。ダンスフロアで"音楽の魔法"によって起こることが、世界全体にも当てはまる。それこそが"ハーモニー"だ。

 ランとの生活は人生で一番幸せな時だったかもしれない。いろんな幸せはあるし、今だって幸せなのだけれども、何というか、、、カップルとしての甘い時間、一緒に生活を共にするとか、初々しさ、若さ、そういった感覚でしか味わえない時間だったと思う。何より、心から愛され大事にされている感があった。15歳の年の差があったけれど、往往にしてイスラエル人は精神的に大人で、あまりその差は感じられず、あったかくて、ポジティブで、安心感があった。

 私達が住んだそこは’カエサリア’という地域で、’テル‧アビブ’からハイウェイを北上し、カエサリア・インターを降りて右に行くとローマ遺跡とイスラエル随一の高級住宅地、そして左に行くとビーチの延長で砂地になっており、私達の住む三角屋根の簡素な作りのビーチハウスがいくつも建ち並んでいた。長く続く砂浜のビーチまで歩いて3分もかからないほどだったし、耳を澄ませばいつでも波の音が聞こえていた。なんと言ってもここも”地中海”だ。週末ともなるとたくさんの人々が来て、夏場はさながら’湘南’のようであったけれど、平日は静かなもので、近所に住むランの友人や同世代の若者達がいるぐらいで、毎日散歩か泳ぎに出かけていた。

 あまり広くはないその三角ハウスだったが、ベッドルームとちょっとしたワークスペースの取れる屋根裏部屋のような2階があり、一階がキッチンとリビングになっていて、とても可愛らしく居心地が良かった。今の自分だったら、あの広さにとても二人じゃ暮らせないのではないかと思うけれど、当時の自分と彼には十分だった。
 
 暮らし始めた頃、ランはその近所にあるローマンシアターのある、ユダヤ国最後のヘロデ王の宮殿跡などの遺跡に連れて行ってくれた。そこを歩いた時、何とも言えない不思議な感覚が私を襲ってきたのをはっきりと覚えている。喜びにも似た感覚。自分の魂が平和な世界を堪能しているかのような、、、。あれが”デジャビュ”というのか、過去生からの記憶なのか、それははっきりとは分からない。

 世界のあちらこちらに行っていると、時々ふとそういう感覚に陥ることがある。2000年以上も前の紀元前に建てられたこの地に、かつて私の魂が”誰か”として降り立ったことがあったとしても不思議ではないじゃないか。魂が何度も生まれ変わるということを、私は子供の頃から普通に信じている。

 ランはある朝には突然「絶対に君を連れて行かなくちゃならない」と言って、かの3大宗教すべての聖地である’エルサレム’へ連れて行ってくれた。モスリム教の聖地’岩のドーム’の黄金に輝くモスクの屋根を少し高台から先方に拝みながら、ユダヤ教の聖地’嘆きの壁’に降り立ち、見よう見まねで祈り、イエス‧キリストの遺体が安置されたとされるキリスト教の聖地’聖墳墓教会’を訪ねた。

 若いながらに、素敵で美味しいレストランにもよく連れて行ってくれた。そこで初めて、私はイスラエルの食の豊かさとレベルの高さ、インテリアのセンスの良さに驚かされるに至った。宗教上の興味深い”食の決まり”もある。肉と乳製品は、一緒に食べない。胃の中で一緒になるのを避けるため肉を食べたら6時間以上は乳製品を摂らず、キッチン用品からその洗い物をするスポンジやシンクも別にしているほど徹底している。魚は食べるが甲殻類や貝類は食べない。

 週末はいつも宗教上の行事”安息日ーシャバット”というのがあり、金曜日の日没から土曜日の夜にかけて、いかなる”仕事”もしてはならず、日曜日から仕事を始める。金曜日の日が暮れる前までには丸一日分の食事を用意して、キッチンで火を使う料理をしてはならないし、お店や公共交通機関も休む。言うなれば日本の大晦日とお正月に近いことを毎週やるのだ。ユダヤ人が国がないままその民族を2000年も保ってきたのがなぜだか良くわかる。ただ、最近の若い世代のイスラエル人達の中には、それに従っていない人も往往にしているようだが、それにしてもいまだそういう風習は引き継がれている。

 シャバットに入る金曜日の夜は彼の実家に欠かさず訪れ、彼の両親、彼の姉家族が集まって、前菜からメインまで何品も用意された食事を食べた。彼の母親とは、英語で会話できなかったけれども、優しい目で語りかけてくれる感じ、お互いに何か手伝ったり触れ合ったりしながら通じ合っていた。私の手洗いではまかないきれない洋服や二人で使うタオルやシーツなどを洗濯してくれて、丁寧に畳んで、翌週行った時に渡してくれるのだった。母を亡くした私には、そういったちょっとした母親の愛情表現というものが身に沁みたし感謝しかなかった。

 彼は私のDJ活動にも協力的で、彼や彼の友人周りのお陰で毎週末どこかでプレイできたし、ギャラ交渉もビジネスに長けているイスラエル人の考え方を真似て、上手く出来るようになっていった。野外のパーティーでは、本当にいろんな場所に出向いた。国自体が日本の四国ほどの大きさなので、南に車を飛ばせば、砂漠地帯、’死海’、雄大な景色、北に行けば緑豊かな風景に出会えた。砂漠で望む朝日はやっぱり絶品だったし、とにかくイスラエル人の若者はフルオンなダンサーが多かった。兵役があることや戦争がいつあるか分からないことで、生きることに真剣な感じがした。一刻たりとも無駄にできないような、そんな意識がどこかにあるのかもしれなかった。


 ポルトガルで2年毎に行われる3万人規模のフェスティバルにブッキングが決まり、ランも一緒に来ることになった頃、一度、少し国を出なくてはならなかった。ビザなしなので3ヶ月したら一度、隣国に出て戻ってくるというようなことをするのだ。ノマドなトラベラーがよくやる事で’ビザラン’と言われる。

 ちょうど南の国境付近のパーティーでプレイしたので、テロで一度断念したエジプトのシナイ半島へ行き当たりバッタリで一人で出向いた。バスで同乗したカップルとのおしゃべりの末、思いがけず”あのテロ”のあった’ダハブ’に辿り着いた。ダイビングスポットで有名な場所だが、そのカップルに言わせると数ヶ月前にテロがあったことで普段よりは観光客が少ないし、テロがしばらく起こることはないだろうからという事だった。

 紅海の水面下は、今まで見たどの海の中よりも美しかった。珊瑚とカラフルな生物、果てしなく青く深いブルーホールは、まるで空を飛んでいるかのような錯覚を起こさせ、一瞬泳ぐのを怯んでしまう程だった。ラクダでしか辿り着けない青い海と広陵とした砂漠のコントラストが映える道のりを数時間行き、世界から遮断されたような場所で数日過ごし、”モーゼの十戒”で有名なシナイ山へ真夜中過ぎから登り山頂で朝日を拝み、その足で帰路に着いた。

 イスラエルの国境では何やら緊迫している様子で、入国審査がとても厳しかった。それがなんだったのかは家に帰ってすぐに分かった。イスラエルと北の隣国のレバノンの間で”戦争”が勃発したのだった。



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