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女好き 志賀 親守(しが ちかもり)

志賀 親守(しが ちかもり)は生誕不明。没年不明。

大友三家(田北氏、詫摩氏、志賀氏)の一つ。北志賀家は南軍衆の筆頭である。大友の主力ともいわれる軍を率いる頭として活躍した武将。

1550年二回崩れの変
大友義鎮(おおとも よししげ)の家督相続に尽力。
1552年親度(ちかのり)に家督を譲って隠居。隠居というぐらいですからこの時、30~40代ぐらいだったのかなとか年齢の推測をしてしまいます。
実際は加判衆の一人として活躍。義鎮や義統(よしむね)の側近として活躍したという。
子の親度と共に無類の女好きで仏教信者であった事から義鎮が宗麟(そうりん)と改名したあたりまでは大友家に尽力していたが宗麟がキリスト教に傾倒し出すあたりから不信感を抱くようになる。
1577年 子の親度が義統と対立し失脚
親度が義統の妾を奪って囲っていたことが露見したことが原因といわれていますが実際にはキリスト教に傾倒していく大友家と対立して抵抗したと思われます。このことが原因で親子共々殺害されそうになるのですから義統も短気というか思慮がないなあと思います。妾の取り合いが原因であれば義統はかなりの女好き、独占欲の塊だったのでしょう。結果、宗麟が仲介して助けます。が、このことが原因で島津氏と通じるようになります。

1578年の耳川の戦い
肥後に出陣したが、この戦に反対していたため軍勢を積極的に動かそうとしなかった。大友軍最強といわれる南軍衆が耳川の戦いに参戦しなかった事が敗戦の原因の様にも思われます。すでにこの頃から島津氏とのやりとりがあったかもしれません。

1585年 島津侵攻の防衛のため宇目村に派遣されるが折りをみて持ち場を離れてしまう、女好きで遊びにでてしまうとの報告がある。さらに、島津氏が大挙して来襲するとの噂が流れるようになると、これに恐怖した親守は、なんと無断で守備を放棄して逃げもどった。大友義統はこれに激怒し、親守を解任させた。逃げ戻ったというのは脚色かもしれませんが対島津に際しては積極的ではなかったことがうかがえます。

1586年、島津氏が豊後に侵攻 「豊薩合戦」
宗麟と共に丹生城(臼杵城)に立て籠もって抗戦。
実際は島津氏と内通していたとされ、子の親度は南志賀家と共に島津氏に味方し、孫の親次(ちかつぐ)が守る岡城を攻撃している。
その後、島津氏が敗北すると親度は切腹。表立って反抗しなかった親守は咎められず、親次の後見役となった。宗麟の葬儀にも参じ、その後も義統の側近として仕え、文禄、慶長の役の際は、豊後国において留守を守った。

没年がわかりませんが孫の志賀親次の後見人となっていますので親次と共にいたのかな?と思われます。
女好きのところが「らんま1/2」の八宝菜的なおじいちゃんだったら面白いのにと思う人物です。

志賀 親守(しが ちかもり)でした。

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