見出し画像

ひどらの不思議体験記◉(バリ編①)

23歳くらいの頃のわたしは、
バリに取り憑かれたかのように行っていた。

何度も何度も通ううちに、
日本の生活に耐えかねたのと、バリのことをもっと知りたい。
という安易な考えで仕事を辞めて、
ひとまず2ヶ月程一人で滞在してみることにした。

その時の出来事。

今思えば最初から波乱含みだった。
出発の少し前に、バリでテロが起きた。
サリクラブが吹っ飛んだやつ。

最初、誰かからのメールで知った。
"バリでテロ起きたけど大丈夫?"

「まじか。。」

引き寄せで言うところのお試しが
すごくでかいスケールで来た。

でも、もう仕事は辞めることになってたし、
チケットも取っちゃってる。

幸いにも向こうの友達はみんな無事だったし、
なにより大好きなバリ。
行って現実を確認したい。
とやっぱり行くことにした。

「レギャン通りは封鎖されてるよ。」
「大きな穴が開いて、瓦礫もすごい。」
「人も全然いないよ。」
「夜中には黒焦げの車のライトがついたり音楽が鳴るって。」

そんなことを周りからは聞いていた。

ニュースでも軍事用の爆弾だったとか、
日々、情報が上がってきていた。

「人が少ないなら治安的には逆に問題ないかもな。。」
当時のわたしはお気楽に考えていた。

まるっと2ヶ月以上一人旅なので、
友達が心配して、ローカルの男の子を一人紹介してくれた。
信用できる子だから、困ったことがあれば
頼めばいいよ。って。

ホテルを取ってなかったから、
(現地で取るつもりだった。その方が安いから。)
バリに着いたわたしは、ひとまずその男の子に会いに行った。

無事に会うことができて、
まずはサリクラブの場所へ一緒に来てくれることに。

聞いていた通り、サリクラブのあったレギャン通りは
進入禁止となっていたけれど、
誰もそんなの守ってなくて、
現地の人も観光客もみんな中に入っていた。

ただ簡素なテープが貼ってあるだけで
辺り一面は見通せるようになっていたから
入らなくても現状はよくわかる。

わたしの知っているあの景色は見事に崩れ去っていた。

「ここはバナナの木を埋めるんだって。
もうクラブは作らないんだって。」

丸焦げになった車には、
カラフルな花が沢山かけられてて、
辺りは一面瓦礫の山。

みんなは写真を撮っていたけど、
わたしはこの光景を目に焼き付けるだけでいっぱいで、
とてもじゃないけれど、そんなことできなかった。

バリなのに、その場所はとても暗くて、
冷たく寒かったのを覚えてる。

☀︎

わたしが初めてバリに来た時に泊まったホテルは
テロの現場からとても近くて、
問題なければ久しぶりにそこに泊まろうと考えていた。
ホテルはかろうじて無事ではあったけれど、
現状危ないから別の場所を一緒に探してもらうことにした。

やっぱりローカルと一緒だと、
とても良いところが安心して借りられる。

天井が高く、大きな芝生のお庭もあって、
テレビや冷蔵庫、ソファやファン、勝手口もある
家みたいな場所を安く借りることができた。

掃除は自分でするみたいで、
ゴミも焼却場に自分で出しに行く。
大きなヒクイドリが、一羽庭をいつも歩いていた。

スーパーに掃除道具や蚊取り線香など、
必要なもの一式を買いに行く。
バリの人たちは、基本優しい。
特に日本人女性は当時好かれていた。

スーパーのレジの男の子が
品物を渡す影からわたしの手に触れてくる。
わざとだ。
目を合わすと、笑顔で目配せしてくる。

バリはお釣りの額が小さい金額
(日本で言うところの銭とか。)だと、用意がないので、
代わりに飴ちゃんになるのだけど、
それも大量に渡してくる。
そして無駄に手を触る。アンド目配せ。

日本でやったら訴えられるレベルだけれど、
バリではよくあること。

名前も、教えたなら一瞬で覚えられてしまう。
ホテルの場所も伝えたら最後、
毎日のように待ち伏せされてしまう。

出会う男の子の殆どに告白されるなんて
わたしのモテ期はこの時だったに違いない。
(神さまできれば日本でもお願いします。)

こうしてわたしのバリ生活が始まった。

△△△

これは、2002年10月当時のお話です。
現在のバリと違うこともあるかと想いますが、
そこはご理解くださいませ☺︎
体験したことを元にお話にしています。
楽しんで頂けたら嬉しいです。 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

日々の占いや占い師っぽいブログはこちら↓☺︎


この記事が参加している募集

頂いたサポートは国内外のパワスポを巡るエネルギーにします。 巡った場所は随時noteに更新していきたいと想います◉ お礼に龍ちゃんエネルギーのせてます∞