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#2 東埼電車戦前史

今回は、東埼電車の起こりと拡張について考えて行きたい。



黎明期 ─砂利電車としてのオリジン

東埼電車のオリジンとなったのは、巣鴨-志村間を結んだ城北電気軌道である。
これは鉄道開業により地位を脅かされていた地元板橋の商人が主体となり、東京近傍の河川(ここでは荒川)で採取砂利を都心へ輸送することと、電気鉄道による地域の活性化を目的として敷設された軌道である。1904年に敷設免許を得て、1907年に前述の区間を開通させた。
前述の理由から同社は貨物輸送のみではなく、旅客輸送にも積極的であった。沿線には陸軍火薬庫をはじめとした軍事施設が点在し、それなりの活況を擁したようである。


転機は1915年、武州電灯による買収である。
こに会社は、埼玉県南部(南足立郡一帯など)を縄張りとしていたが、当時の東京近郊での電力会社の競争には押され気味であり、安定した収益のあるフロンティアとして、城北電軌の買収に至ったわけである。

砂利電車のイメージ(写真は玉川電軌)
世田谷区HPより引用 https://www.city.setagaya.lg.jp/theme/kanko/002/001/d00016552.html

拡張期 ─インターアーバンを目指して

1916年、城北電軌は志村-戸田-浦和中町間の鉄道免許を出願した。
18年にこれは認可され、22年には荒川越えは自社の渡船経由ではあるが、一応の東京-浦和間連絡を果たした。これに合わせ、屋号も「東京埼玉電気軌道」に改称した。この急激の北進の裏には、武州電灯のバックについていた浦和商人からの圧力があったものとされるが、今となっては真相はわからない。東埼電軌は大延伸の裏で、軍人を始めとした中流階級に向けた地道な宅地分譲も行っていた。この時代には城北分譲地(庚申塚駅一帯)などを行い、堅実な成果を挙げていた。


浦和暫定開通の翌年である1923年、文字通り天地を揺るがす様な衝撃が東埼電軌を襲った。関東大震災である。この厄災は、京浜地方を壊滅させ、東京市民の民族大移動を引き起こした。幸い東埼電軌には、致命的な被害はなく、翌月には全線で運転を再開した。この震災からの復興により砂利需要は急増、埼玉県下の分譲地への入居者も急増、東埼電軌にとっては「地震さまさま」であったようだ。
砂利販売での利益を元手に、懸案事項であった荒川越えの橋梁を架け、高速化のために、復興と宅地整理のどさくさに紛れ巣鴨-志村橋間の併用軌道を削減し、急行運転を開始した。


この頃より東埼電車は、大型化へ舵を切り始める。
路面電車に毛が生えた程度のそれまでの車両とは根底的に異なる、急行用14m級ボギー車の導入を決断した。零細電軌からの脱皮である。
件の新鋭急行車は、巣鴨-浦和間を22分で結び、フリークエントサービスも相まって、この頃走り出した京浜線電車に対抗した。


安定期 ─氷川路を往く

1932年、浦和中町-氷川口間が開業した。この延伸により、乗客は、武州一宮氷川神社に直接にアクセスできる様になった。1932年末から、毎年恒例の年末増客臨が運転される様になった様である。大宮乗り入れの影には、在大宮紡績会社数社からの支援もあった様だ。画して、東埼電車は強い「目的地」を手に入れたのである。


東埼電車の大宮延伸と連動して行われたもう一つの大事業は、「文化都市」の建設である。これは与野の鴻沼川左岸の台地に築かれた大規模分譲地である。これの建設にあたっては、秩父より土を買い入れ、地盤を補強するなど、一から徹底的に開発した。
電化・都心アクセス・自然の揃ったこの宅地は、31年に大宮延伸を待たず発売。
東京の中流階級の宅地/別荘地として、飛ぶように売れたという。これにより、東埼は、参詣客に頼らず、自社の固定客の確保に成功。国電の躍進の中、足場を固めて行くのであった。こののちに隣接する浦和別所沼を遊園として整備し、行楽の醸成をも行った。

東京近郊の分譲地のイメージ(写真は東武線 ときわ台駅)

1935年には、今まで街道上にあった巣鴨駅を専用線へ移設。自社百貨店ビルの併設した4面3線の巨大ターミナルへ変貌させた。

東埼巣鴨駅のイメージ
(小林百貨店HPより引用 出典 https://www.kobayashi-dept.com)

終わりに

東埼線 形成略図

これが戦前東埼電軌の通史である。諸設定を無理やり一つに詰め込んだ様な文章になってしまい、申し訳ない。次回は戦中-高度経済成長の社史を紹介したいと思う。

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