#4 東埼電車の「いま」

3本(+番外編)と、概要ながら東埼電車の通史を綴ってきたわけであるが、ついに最終回である。



発展期 ─好況の中で

1972年、沿線での宅地化の進行を受けて従来の急行を格上げし、新種別である「特急」を新設。これによって、殆ど現在の東埼電車の形が確立したともいえる。まこれに合わせ、新鋭特急車である「5000形」が投入された。
この新型車の画一的な点は、従来座席指定の有料特急であったものを刷新し、通勤種別として一般旅客に開放した点にあるだろう。件の「5000形」も、それに合わせ、セミクロスシートでの製造となった。そして置換された新「急行」は、埼玉県下からの中距離旅客に焦点を絞った種別となった。
同年、三田線・新巣鴨-日比谷間が開業。翌年には日比谷-三田が延伸開業し、東埼電車は都電直通時代以来の都心乗り入れを果たした。


多角的企業としての東埼

他方、東埼の百貨店事業に目を向けてみる。
それまでの東埼は、巣鴨駅に百貨店を構えるのみであったが、沿線人口の増加に合わせ、百貨店事業の拡大を目論んだ。73年には、「大宮東埼百貨店」(現:東埼百貨店大宮大門町)、78年には「浦和東埼百貨店」(現:東埼百貨店浦和中町)を開業させている。これは1967年に国鉄大宮駅併設の形で商業施設・大宮ステーションビルが開業が開業したことへの対抗であり、また、増加した沿線人口に対する足場固めの一環でもあった。
1984年には、同社系テナントビルブランドである「Viento」一号店となる「志村橋viento」が開業した。

様々な商業形態

改革期 ─失われた20年

1991年、バブル経済の崩壊に伴い、日本経済は長い停滞期に突入した。
これを受けた1993年、創業80年を記念し体質改善運動が企画された。この運動は、主に情報化時代への対応と、女性人材の更なる登用を目的として行われた。先行きの見えぬ不況の時代。企業風土の改善により立て直しを図ろうという魂胆である。この運動は一定の成果を上げ、旅客輸送サービスの品質向上にも繋がった。


さて、話を鉄道事業に戻すと、この年間には高度経済成長時代に大量投入された大型車群が更新の時期を迎えていた。これを受けて、1993年には、ステンレス車体にGTO-VVVF制御をそなえた8000形電車が導入された。この電車は以降10年に渡り増備され続けることとなる。また、「情報化への対応」を反映した結果として、90年代初頭から旅客案内用に電光掲示板が導入された。
2000年には、都営三田線・三田-目黒間が開業。東急目黒線との直通運転が開始され、城南・横浜北西方面へのアクセスが容易になった。これに合わせ、東急3000系と共通規格の10000形の投入が始まった。


東埼電車のいま

今日、東埼電車は巣鴨-大宮公園間を主軸とした計32.6kmの路線を有する。
また現在、都営三田線・東急目黒線・相鉄線に乗り入れ、北は大宮・南は相鉄線厚木まで広がる広域な路線ネットワークの一端を担っている。また、線内の5駅では百貨店/テナントビル事業を展開する一方、埼玉県南部を根拠としてバス事業や不動産事業を展開し、多角的なインフラ企業として責務を全うしている。


まとめに

これが今日に至るまでの、大まかな東埼電車の社史である。幾許か大味になった箇所はあるが、それは今後の再考証作業を通じて改善を図りたい。
今後の見通しとしては、ここまでの四本のnote記事を見直し、HPに掲載する決定版としての、「東埼電車史」を書き上げるための考証作業を行おうと考えている。
最後に、ここまでお付き合いいただいた読者諸兄には感謝申し上げたい。

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