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何気なく、ごく当たり前に、私たちは毎日口を使って生きている。あまり今まで口のことを意識したことはなかったが、口とは実に不思議な器官だと思う。そして一人一個しかついていないのに、口は様々な役割(マルチタスク)を担わされているなぁと思うのである。

口がやっていることをざっと挙げてみる。結構色々やっている。

・食べる
・しゃべる
・息を吸ったり吐いたりする
・キスする

まず「食べる」ことと「しゃべる」こと。これは、口が担っている二大タスクと言っても良いだろう。両者には一見何の関連性もないように思えるが、なぜかこの人間にとって極めて重要な行為である「食べる」ことと「しゃべる」ことが、同じ「口」というひとつの器官によって行われているのだ。これはよくよく考えると、とても不思議なことだと思う。

そもそも食べることとしゃべることは、同時にはできないようになっている。時々「食べながらしゃべる」というわざわざやらなくてもいいようなことをやっている人を見かけるが、案の定まわりからは冷ややかな視線が向けられている。なぜ食べることとしゃべることが同時にすらできないのに、人間にとって極めて重要なこのふたつの行為を、口というひとつの器官が担わなければならないのか。「食べる」と「しゃべる」は完全に切り離して、それぞれ独立した器官が専門的に担ったほうが、より合理的だし、効率的な気もする。誤飲ごいんも減るだろうし……。考えれば考えるほど人体のつくりとは不思議なものである。

息を吸ったり吐いたりするのは、実際口を通って行われるので口の機能のひとつと言えなくもない。しかし、この機能は鼻ともタスク分担しているわけで、厳密にいえば口だけが担っている機能とは言えない。もしも呼吸という行為も鼻の援助なく、すべて口だけでやらなければならない構造になっていたとしたら、人間生活はさぞ忙しく不便なことだっただろう。

キスをするというのはどうだろうか。キスは社会性動物である人間にとって様々な意味を持つ重要な行為であることに違いないが、人間生活の根幹をす生命の維持(食べる、呼吸する)や意思疎通(しゃべる)といった役割と比べれば、その重要性は低いように感じる。事実、食べなくては死んでしまうし、呼吸しなければこれもまた死んでしまう。しゃべらなくても生きてはいけるかもしれないが、人間誰ともしゃべらなかったら心を病む可能性が高いだろう。キスはする機会があるのならそれはそれで良いことだと思うが、特段しなくてもよいのだ。キスをしなくても死ぬこともない。キスはどちらかと言えば、口に与えられた付随的機能のようなものととらえて良いだろう。

話は変わるが、仏教では「十悪じゅうあく」というものが説かれている。これは、その言葉通り仏教的に「悪」とされている10の行為のことである。十悪の一つひとつの説明はここでは省かせてもらうが、十悪には「しん」つまり体で行う悪、口で行う悪、心で行う悪の3種類があると言われている。それぞれ身(体)で行う悪が3つ、口で行う悪が4つ、意(心)で行う悪が3つだ。口で行う悪が4つと最も多いことが分かる。口で行う悪には、以下の4つがある。

妄語もうご(言葉によって他人をたぶらかす)
両舌りょうぜつ(争いを構えさせ、仲違いさせる発言をする)
悪口あっく(汚く罵って他者を悩ます)
綺語きご(飾り立てた無意味な言葉であり、道理にそむく)

つまり人間の口は仏教的に観れば、十悪のうち4つもの悪を実行する器官であり、実は日々相当な悪事をはたらいているとんでもない器官だと言える。

さらに言えば「食べる」という行為も十悪のひとつ、殺生せっしょう衆生しゅじょうの生命を断つ)に当たる。毎日毎日、他者の命を奪い、それを糧に自分の命を保とうという極めて身勝手で残虐な行為の一端も、また口という器官が担っていることになる。キスも人間の色欲しきよくが具現化された行為であり、仏教ではあまり好ましい行為とは考えられていない。

要するに仏教的観点からいえば、人間の口が行う様々な行為は、総じて悪いこと・・・・なのだ。それだけ我々の口とは不浄・・な存在であるとも言える。このように、我々の顔についている口という器官は、様々な悪事を日々積み重ねているということになる。これは私に限らず、皆さんにも当てはまることではないだろうか。認めるか認めないかは別として……。

さてここからは少々マニアックな話になるので、興味がある方のみお付き合いいただければと思う。

我々仏教徒、特に他力信心たりきしんじんの世界に生きる念仏者にとって、口が不思議な器官である理由は他にある。それは、上記のように口は様々な悪を作り出す極めて不浄な器官であるにも関わらず、その口を通して、お念仏が出てくることである。それの何が不思議なのかと思われるだろう。念仏者にとって真理とは言葉であり、この世界で最も尊く清浄なるものもまた言葉である。その言葉とは「名号みょうごう」のことである。名号とはつまり南無阿弥陀仏なむあみだぶつの六字のことであり、シンプルに言えばお念仏のことである。

浄土教の根本聖典のひとつ「大無量寿経だいむりょうじゅきょう」には、このようなことが説かれている。かつて阿弥陀仏あみだぶつという仏様が法蔵ほうぞうという菩薩ぼさつに身を落とされ、気の遠くなるほどの時間をかけて、どうすれば救われ難いこの私を救うことができるかを考えた(五劫思惟ごこうしゆい)。そして、自分が仏になるまでの修行を行い、その修行の功徳くどくを南無阿弥陀仏という名号に丸々詰め込んで、私にあげれば私を仏にすることができるということに気づかれた。そこからまた気の遠くなるほどの時間をかけて法蔵菩薩の修行は貫徹かんてつされたのだ(兆載永劫ちょうさいようごうのご修行)。南無阿弥陀仏によって私を仏にするというがんはすでに成就している。阿弥陀仏は南無阿弥陀仏という名号、つまり声の仏様となって、現にこの私に今はたらきかけているのだ。その確たる証拠に、お念仏がこの口から出てくるのである。

普段は命をかみ砕き、悪口や陰口、使い捨ての言葉ばかり発しているこの口が、真理そのものであるところの言葉、ぶつび声である言葉、そしてぶつそのものでもある言葉、南無阿弥陀仏の「名号」をとなえるのである。凡夫ぼんぶの不浄な口を通って、およそこの世で人間が出遇であえる最も確かなものである南無阿弥陀仏が飛び出てくるのだ。それをこの私自身が今、現に体験している。これを不思議と言わずして何を不思議と言おう。私をぶつにする力を持っている名号が、その最も対極にあるこの私の、この不浄な口から出ているのだ。

太古より人は不思議なことにかれてきた。不思議なことなんてめったに起きないよという人もいるだろう。何も遠くを探す必要はない。我々の最も身近にある「言葉」というものに目を向ければ良いのだ。言葉ほど不思議なものはない。

「言葉とはコミュニケーションのツールである」などと言われるが、それは言葉の持つごく一部の側面・役割でしかない。言葉とは人類が意思疎通するために発明した道具・・だと思っている人も少なくないだろう。言葉のことを詳しく調べていけばわかると思うが、言葉には様々な次元が存在している。例えば、我々が普段使っている日常言語と詩的言語では同じ言葉であってもその次元は異なっている。我々念仏者にとって最も高い次元に位置している言葉こそ「名号」なのである。ぶつそのものが言葉となった言葉が名号であり、そのたった六字の言葉に私をぶつにするだけの功徳が詰まっているのだ。言葉には情報伝達という役割もあるが、人間をほとけにするもあるのだ。今まで言葉というものをいかに軽率に、表面的に捉えていたのかと反省するばかりである。

このような話は仏教、特に浄土真宗で詳しく説かれている。普段あまり意識したことはなくとも、「そういえばうち・・の宗派は浄土真宗だったな」という方も多いのではないだろうか。「浄土真宗ってどんな宗教?」と聞かれたら、私は「言葉によって人間が仏になる道を聞いていく宗教」と答えても良いのではないかと思っている。「南無阿弥陀仏ととなえれば阿弥陀様という仏様が死後極楽浄土ごくらくじょうどに連れて行ってくれる」という説明よりは幾分ましだと思う。

言葉の真理、言葉のはたらきの本当の不思議にはた・・と気付いたとき、人は今までとは全く違う世界を知ることになるだろう。

今回は何となく口のことを考えていたら、「言葉」の話、「名号」の話まで飛躍してしまったが、話を戻すと、やはり口とは何とも不思議な器官だなとつくづく思う。こういうことを書きながらビールを飲んでいるのもこの口なのである。日々悪業を作り出している全く不浄なるこの口と、三世十方さんぜじっぽうを貫く全く清浄なるお念仏。一見相反する両者が同じこの口をかいしていることは不思議としか言いようがないが、少なくとも私に口があって良かったと思う。他でもない私のこの口・・・・・を通って、私の耳に直接お念仏を聞かせてもらうことができるのだから、これほど心強いものはない。

さて、皆さんは「口」についてどのような考えをお持ちですか?

南無阿弥陀仏


【参考サイト】

【参考著書】
「なぜ名が救いか」大峯顕著 百華苑


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