東野たま

2022年8月に京都からアメリカに越してきました。 現在テキサス州オースティンに住んで…

東野たま

2022年8月に京都からアメリカに越してきました。 現在テキサス州オースティンに住んでいます。 詩、仏教のことなど、時々更新していきたいと思います。 皆様からのコメント&シェア大歓迎です🎵

マガジン

  • 私の求道体験記・仏教のこと

    仏教とは何なのか?自己とは何なのか?浄土真宗の教えを通して私が体験したこと、感じたことを具体的に記録した記事を集めております。皆様にとってこれが仏教とのご縁になれば、嬉しく思います。南無阿弥陀仏

  • 雑文

    日々考えていることや感じたことを、つらつらと書いております。

  • おたまの宝箱

    ひっそりと美しく咲いた一輪の乙女椿のように、 わたしの心をぐっと掴んで離さない作品たち。

  • 写真日記

    不定期で写真付き日記をアップしています。主に京都で訪れたスポットの紹介です。あまり知られていない穴場を紹介していきたいと思います。

  • 音楽と言葉

    わたしがこれまで作った音楽や、その音楽のイメージを言葉にしてみたものを集めてみました。

最近の記事

  • 固定された記事

考えるということ

ものを考えるということは、どうやってこの事業で売上を伸ばそうかとか、どうやって子供をいい大学に行かせようかとか、どうやって健康長寿・家庭円満に暮らそうかとか、そんなことを考えることではない。明日自分が死ぬとわかっていたら誰もこんなこと考えないだろう。 人生設計も社会貢献も大いに結構だが、どちらも大枠の方向性としては結局同じことで、どうやって人間のこの飽くなき欲(またの名を幸福、またの名を愛という)を満たすかということをただ追求しているに過ぎない。それが個人レベルの話か、社会

    • 砂時計

      どうしても 落ちていくしかない どれだけ上に留まっていたいと願っても 砂は落ち続けている 今も落ち続けている やがて すべての砂が下に落ちきった時 誰かがまたひっくり返す それは その直後かもしれないし 数万年後かもしれない 最初に落ちた砂を見ていた砂は 次の瞬間 落ちていった みんな落ちきったら またひっくり返って 最初の砂から落ちていく そんな砂の一握が 念仏を聞いて仏になるという 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

      • 大切なメッセージは、必ず声に乗って届けられる。

        先日、「レゲエの神様」と言われるBob Marleyの伝記映画「One Love」を劇場で観てきました(日本では5月に公開予定です)。すでに世界中で様々な賛否が飛び交っているようですが、私はとても素晴らしい映画だったと思います。今回は、この映画を観て私が感じたことを少し書いてみたいと思います。 余談ですが、実は私は中学2年生の頃に初めてBob Marleyを知ってから現在に至るまで、レゲエと共に人生を歩んできたと言っても過言ではないくらいレゲエ大好き人間なのです。40代半ば

        • 私が生まれた日 空は、どんなだっただろう 母はその日、空を見上げただろうか 父はその日、空を見上げただろうか   その空を   いつまで覚えていただろうか 母が死んだ日。 父が死んだ日。 見上げることすらなかった ふたつの空…… 私が命を最後に生きる日も 空は変わらず そこにあるだろう 私が生まれた日と同じ空が 老いることも 褪せることもなく 母が最後に生きた日も、 父が最後に生きた日も、 空は、何も言わなかった。 地上ではいつも何か起きている 空にはただ念仏が

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        考えるということ

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        記事

          私がどのようにして「死の問題」を解決したか

          突然ですが、皆さんは病気になったら、どこへ行きますか?恐らく床屋でも八百屋でもなく病院へ行くはずです。それは医者が病気のプロだと知っているからです。車が故障したら、そば屋でも家具屋でもなくカーディーラーか修理屋へ行くはずです。それは彼らが車のプロだと知っているからです。 あらゆる分野にはその道の専門家がいます。では、もしあなたが「死の問題」に直面したとしたら、どの専門家を訪ねますか?医者でしょうか?科学者でしょうか?それとも哲学者でしょうか? 私は、なぜそうなったのか未だ

          私がどのようにして「死の問題」を解決したか

          「人は見かけじゃない。大事なのは中身。」

          私は顔ではなく「中身」で人を選びます。そう自信満々に宣う人がおります。まるで「自分は人を外見で判断しない公平な目を持った人間です」と言わんばかりに。 しかし冷静に考えてみれば、見かけで判断しようが中身で判断しようが、結局はその人の持っている特性が自分の好みに合っているかどうかで人を判断していることに変わりはないでしょう。つまり、その判断材料が「見かけ」なのか「中身」なのかの違いだけで、自分にとって都合の良い人間であるか、そうでないかで相手を判断していることに変わりはないので

          「人は見かけじゃない。大事なのは中身。」

          信仰を持つと 明るい人間になる 我が心の 底の底 光など届くはずもない 深海のように暗い場所…… そんなところまでも 煌々と照らされるものだから 否が応でも 明るい人間に なってしまうのだろう 南無阿弥陀仏

          信仰を持つと 明るい人間になる 我が心の 底の底 光など届くはずもない 深海のように暗い場所…… そんなところまでも 煌々と照らされるものだから 否が応でも 明るい人間に なってしまうのだろう 南無阿弥陀仏

          何気なく、ごく当たり前に、私たちは毎日口を使って生きている。あまり今まで口のことを意識したことはなかったが、口とは実に不思議な器官だと思う。そして一人一個しかついていないのに、口は様々な役割(マルチタスク)を担わされているなぁと思うのである。 口がやっていることをざっと挙げてみる。結構色々やっている。 ・食べる ・しゃべる ・息を吸ったり吐いたりする ・キスする まず「食べる」ことと「しゃべる」こと。これは、口が担っている二大タスクと言っても良いだろう。両者には一見何の

          夢の中

          皆が変われ変われと言う 人生は自分自身を成長させる舞台だと言う もっと研鑽に励み、高みを目指せと言う 常に変化し続けろと言う そうしないとお前は負けるぞと言う この世界の落ちこぼれになるぞと言う 稀に 今の自分のままでいいよと言う人もいる 変わる必要なんてないよと言う人もいる それを聞いて安心する人もいる そういうことを言う人も それを聞いて安心する人も 負け組だと言う人もいる 人生の落伍者だと言う人もいる 金持ちも、貧乏人も 金が欲しいことに変わりはない 金が惜しいこと

          明暗

          長生きするのも悪くない 早死にするのも悪くない 高々数十年の違いに 良いだの悪いだの 言ったって仕方がない 長かろうが短かろうが たった一度の人生をどう生きたか 誰のものでもなく自分自身の人生を しっかりと 生き抜いたか  余すことなく 生き切ったか そんなことは 全く重要ではない 死んだら即 仏と成り この娑婆に舞い戻り 衆生救済の活動が始まる 永遠の救済活動に参加するか 永遠に六道を迷い続けるか その違いさえ はっきりしていれば 生き様も 死に様も 何ら問われ

          種を蒔く人

          その人は 今日も黙々と種を蒔く 種を蒔くことがその人の仕事だから…… 来る日も 来る日も 人々の心に足を運んでは 痩せた土に鍬を入れ 枯れた田畑を潤して いつも両手一杯に抱えた種を 蒔けるだけ蒔いている 喜びの中に在っても 哀しみの中に在っても いつか還るその日まで ひたすら蒔き続ける…… ある時  蒔かれた種のひとつから 小さな芽が顔を出す やがてその芽は大きな樹となり 芳しい花を咲かせる   白蓮華の花       分陀利華の花 色も、形も、大きさも、様々に違

          種を蒔く人

          親として

          「どうしてみんな最後は死んじゃうのに生きないといけないの?」 「私は何のためにこの世に生まれてきたの?」 「死んだら私はどこへいくの?」 私は子供がいませんが、もし自分に子供がいたら、親としてこのような極めて重要な問いかけに、きちんと子と対話できるだけの死生観は最低限持っておきたいと思います。 間違っても、「そんなこと考えても仕方ないから、お前はお前の人生をどうしたら楽しく豊かに幸せに生きられるかを考えなさい。」などと答える親にだけはなりたくないです。 ある親は、「

          愛の所在

          私は知らない。私の中に住んでいるお前たちのことを。お前たちが、私の中のどこに住んでいるのか。私の中で日々何をしているのか。私は何も知らない。そもそも私の一部のはずなのに、私はお前たちの活動の目的すら聞かされてはいないし、その活動に何ら関与することはできない。 私はお前たちが何者なのか知らない。しかし、確かなこともある。私の軟弱な意思など比にもならないほど強大なお前たちの意思。その意思の主とは一体誰なのか。少なくともそれが私でないことは明らかだ。常に最も近くにいるのに、最も遠

          親殺し

          今日も私は肉を喰う  この肉がかつての親だとも知らず 父は豚となり  母は牛となり 祖父は鶏となり  祖母は魚となり その身は刻まれ肉となり 私はそれを貪り喰う 仏法聞けよ 仏法聞けよ 私の命なんていくらでもあげるから 必ず聞けよ 信心獲れよ 彼らの願いなど意にも介さず 美味い不味いと父母を喰らい まだ飽き足らず祖父母も喰らう 今日も明日も生きて当然 生かされて当然の命 さて、この命どう使おうか? 家族仲よく幸せでも掴もうか 忘れかけていた夢でも叶えようか こころ

          仮の場所

          この世は仮の場所 誰ひとり留まり続けることはできない みな棲み慣れたこの世から いつか必ず旅立っていかねばならない 仮の場所で果たし得る目的は やはり仮の目的でしかない この世で何を成し得るか この世に何が残せるか そんな仮の目的ばかりに気を取られている間に 仮の人生そのものも泡のように消えていくだろう 真に催された意志によるものでない限り 仮の世界に残せるものなど何もない この世という仮の場所にて 心身という仮の生命あるうちに 真からの呼びかけに耳を傾け 真の場所

          人間の鏡

          辛いと言えば 辛いんだねと言う 悲しいと言えば 悲しいんだねと言う 苦しいと言えば 苦しいんだねと言う 死にたいと言えば 死にたいんだねと言う 人間の鏡に徹することで やがてラポールが生まれる 人間の鑑なんかより 人間の鏡になること 助言も慰めも  それからだ