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『青い舌』

山崎聡子歌集『青い舌』(書肆侃侃房、2021年)を読む。前作の『手のひらの花火』が2013年刊行なので、8年ぶりの歌集となる。

歌集の最初に妊娠している様子があり、歌集中でも子供はたくさん出てくるのだが、子育ての歌という感じはしない。一般的に子育てを通して子ども時代を辿るということはあるが、この歌集では〈辿る〉というよりも〈生き直す〉感覚が強く、そこが特徴的だと思う。

雲梯をにぎって鉄の味がする両手をあなたの肩にまわした
花柄のワンピース汗で濃くさせた母を追って追って歩いた水路
西瓜食べ水瓜を食べわたくしが前世で濡らしてしまった床よ
わたしはあなたにならない意思のなかにある淋しさに火という火をくべる

一首目から三首目までは、記憶のなか(三首目は前世とあるが、これも子ども時代に通じるものだと仮定する)の歌となっていて、歌集が時系列であるならばおそらく妊娠中のものだろう。母との微妙な距離感を詠んだ「赤い眼をして生きていて」という連作中のもので、もっと端的にわかりやすい歌もあるけれど、一首目や二首目の匂いや体温を感じる生々しさがとても印象的だ。四首目は母親としての母の生き方について決別を宣言し、しかしなお、子ども時代の淋しさは自分が母となることで照射されてしまうのかもしれないと思わせる。

クレヨンに似た匂いする髪の毛をわたしももっていたのよ、真昼
子どものあたまを胸の近くに抱いている今のわたしの心臓として
愛の舌の根の乾かないうちに抱く私の小さな小さな子供

子どもの歌を見ていく。こういう、子どもそのものを詠んだものもあるし、三首目などは〈愛の〉〈舌の根の・・・〉の取り合わせが面白いなと思うし、可愛さがまさっているけどちょっとウイットが利いている感じがしていいなと思う。子どもがかわいいかわいいしている歌は少ない(そういう歌ばかりだと読ませる歌集にはならないので当然といえばそうなのだが)。

夕立ちに子どものあたま濡れさせて役に立たない手のひらだった
舌だしてわらう子供を夕暮れに追いつかれないように隠した
ミルク瓶をかたむけている夕焼けの色を上手に塗れなかった手で
蟻に水やさしくかけている秋の真顔がわたしに似ている子供
わからないことが多いからビニール袋しいて子供をそこに寝かせた
頼りなくてごめんねわたしオナモミをこんなにつけてごめんねごめんね

親になったときの不安感は誰しもあるものだろうが、親としての無力感のようなものが表れているものが多い。子ども時代の母との関係を、自分の子育てによって更新したいという思いが下地にあるからではないか。
ひくくひくく踏切音がする道で貨物列車が母をよぎった
はじまりよ 子どもを胸に抱きながらサルビア燃える前世を捨てる

歌集後半にあるこのような歌を見ると、そういう思いが湧いてくる。

ともだちの子どもを抱いて右胸を破って鳴っている音を聴く
ノースリーブから腕突き出して歩いてたわたしを君のなかに浮かべた
コスモスが祭壇めいて冗談のあなたの遺影を撮る秋まつり
背泳ぎで水の終わりに触れるとき音のない死後といわれる時よ

他に気になった歌はこういう歌たち。言い方があっているかわからないが、〈破って〉や〈突き出して〉の粗暴な感覚、遊びのなかに急に現れる死の気配。そういったものは、子ども時代にはもっとみんながわかっていた感覚のような気がする。大人になって忘れていってしまったことあるな、と思った歌たちだった。


山崎さんの歌、歌集として読んだのは初めてだったけれど、ぐいぐい引き込まれて読めました。『手のひらの花火』もちゃんと歌集で読んでみようと思う。

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