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「写真を撮る」ということ。

行く先々で写真を撮る。昨年5月から全国47都道府県を巡る旅をはじめてからというもの、「写真を撮る」という行為は習慣になっていった。

すると、写真が溜まってく。さながら、最近の自分のからだのよう。栄養をこれでもかとおなかに蓄積するかのように、Lightroomには陽の目を浴びない写真がストックされていく。

友人がシェアしてくれたnote。

知らず識らず「映えそうなもの」にカメラを向ける神経回路が生まれていて引いた。

僕はそのことに気づけないまま、映えそうなものを撮りたくなる神経回路に侵されていたのだと思う。1年前に戻りたい。笑

そのこと(映えそうなものを撮りがち病に犯されてること)を認識した今も、何が「自分の心が動いて撮ったもの」で何が「映えそうだから撮ったもの」なのか、明確に区別はつきません。

区別できる人は、なにかが違う。

きっと、それは自分の中で"感じる"ことができているかどうか。言い換えると、心の声に耳を傾けられているかどうか。

心の声を聴くのって、ものすごく難しい、と思う。

SNSでいいねがきてるか気になる、だとか、何の通知なんだろう、とか。たくさんのノイズやたくさんの正解がある中で、自分は自分を信じられるの?

自分を信じるって簡単なことじゃないけど、「孤独」と向き合うことで少しずつ自分を信じられるようになる、それが僕の中での暫定解。

たくさんのノイズが蔓延っている環境では、自分が信じられるものにすがりたくなる。

そして、自分を信じられなくなったとき、自分を信じたい気持ちは誰かから認めてもらうことで代替する。それは承認欲求の誕生であり、いつの間にか"映え病"を発症する。

國分功一郎さんの『言語が消滅する前に』という本の中に出てくる哲学者ハンナアレントさんの言葉。

"孤独"とは私自身と一緒にいられること、"寂しさ"は誰か私と一緒にいてくださいという状態

言語が消滅する前に / 國分功一郎

そんな趣旨のことを書いていた。寂しさを埋めるために誰かを求める。そんなときにパートナーがいたら楽なんだろうけど、寂しさを埋めるためのパートナーは寂しさを埋めるためだけの人であることが往々にしてある。

だから、寂しさは消えずに、承認欲求は次第に質より量を求めていく。そして、不特定多数からのいいね欲しさにSNSにハマっていく。


でも、孤独でいられる人はそんな状況に陥らない。だから、孤独になれる人は、きっと自分の心の声を聴ける人なんだと思う。

簡単・便利は、心の不感症への入り口だ。

むやみやたらに「いいね」押しているうちに、本当に良いなと思えるものが分からなくなる。

インスタにアップすることだけを考えて、シャッターを切りまくるうちに、自分の中の「美しい」が曖昧になる。

心にもない言葉で相手を慰めるうちに、心が通じ合うコミュニケーションが取れなくなる。

自分の心に正直になろう。そして、生の感情に思いを馳せよう。

たくさん笑ってたくさん泣こう。そして、大事に守ってあげよう。

誰かを愛して、自分を愛そう。そして、今しかない今を生きよう。

感じる力を取り戻すために、また写真を撮っていこうと思う。


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