見出し画像

立花宗茂 生涯無敗の男

 戦国武将・立花宗茂の勝率は十割、
 生涯無敗であった。
秀吉の朝鮮出兵の、文禄の役一一碧蹄館の戦いでは、李如松ひきいる明・朝鮮連合軍十五万余に対して、三千の兵をもって日本軍の先陣を切り、大勝をあげていた。
 同じ文禄の役〜晋州城の戦いでは、
十万と号する大軍(実数四万八千)を
自ら反撃の先鋒をつとめ、五百人近い犠牲を出しつつも、明の大軍を打ち破っている。
 関ヶ原の戦いでも、西軍に属しながら
宗茂は、自ら担当した東軍方の大津城を
開城した。
 ところが、味方が東軍に関ヶ原で敗れてしまう。
 自らの柳川(福岡県柳川市)の領地十三万石をもって、籠城し玉砕しようとしたが、家康の宗茂助命発言を聞いて、流浪の旅へ。
 その宗茂、驚くことにその後、二代将軍・徳川秀忠のもとで、再び、大名に
返り咲いていた。そうした例は、他にない。
 彼は、豊後の大友宗麟の重臣・高橋紹運を父に生を受けた。
 十五歳の時、同じ大友家の戸次道雪(べっきどうせつ)に望まれ、その娘で絶世の美女・誾千代(ぎんちよ)を娶って養嗣子となった。
 養父道雪は、大友家の名門「立花」姓の名乗りを許された武功の士で、生涯三十七度の合戦に一度も、負けたことがない、といわれていた名将であった。
 宗茂の実父紹運も敵味方の心の中を
読み取る名人として知られていた。
 宗茂は、この二人の父から薫陶鍛錬を受けた。
 主家の大友氏が、耳川の合戦で宿敵・薩摩の島津氏と戦い、威望を失墜させてしまう。その大友氏を懸命に支え、七年間も北上してくる島津勢と奮戦する。

関ヶ原の戦いの後、牢人生活で降るごとく持ち込まれる仕官の話を断わって、
宗茂は、徳川家の仕官、大名の返り咲きを目指していた。
 ほどなく、徳川秀忠に請われ、幕府相伴衆に取り立てられ、ついで、奥州南郷
一万石へ。そして、ついに十万九千石の
柳川の領主に返り咲いている。
 三十四歳で柳川を去ってより、実に
二十年目の帰国であった。

この投稿は、尊敬する、作家の加来耕三先生から、抜粋、引用しました。
ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?