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臨終の祖父のそばで

本当にあった話

私は祖父母に大変愛された幼少期を送りました。
初孫である事。また祖父母の家のそばに住む私は、小学校の時も、まずは
祖父母のもとに帰宅し、TVを見たり、おやつを食べさせてもらったり、
ほとんど自宅にいた記憶がない程の毎日を送りました。
私の両親は若く、その頃、夫婦喧嘩ばかりしている毎日で、私の祖父母は
私を、実の子供として養子に迎える事を考えた事もあった様です。
そこで私は、祖父の考え方や、いろいろな事を吸収することとなり、
今の自分の性格を確立していく基礎となったと思っています。

祖父は自営で工場をやっていました。
いわゆる職人で、真面目、几帳面な人柄でした。
母達、自分の子供達には厳しかったそうです。それは働き手として
子供達を育てていたからでしょう。祖父は時代もあり、
徴兵されて戦地に行った経験もありました。
長崎に落とされた原爆のキノコ雲を遠くから見たそうです。
戦後も家族を養うために、
必死で働き、大変苦労した事は幼かった私にも、祖父のオーラからそれを
肌で感じとっていました。
祖父達の晩年は会社も順調で家庭は豊か、景気も良い時代に入って行きました。
しかし、豊かであればまた別の意味で、苦労は続きます。
会社の後を継ぐ者達のいざこざが始まり、嫁達の争いに巻き込まれ、
また病気にも見舞われて、あっという間に、
1年の間に2人とも他界してしまいました。
私は、信心深かった祖父の影響でしょうか?心霊的な事については、身近に感じることが時々ありました。そして、特に
祖父が亡くなった時のことを、今も忘れることができません。

時は10月の初め、台風が来ていて、祖父が入院していた病院の裏を走る
国道のバイパスで、大きな物音がしました。意識がほぼ無くなっている祖父の側に私だけが付き添っていた時の事。病院の最上階の祖父の居る病室の窓から、
そのドカーンと大きな音のする方を見た所、白い乗用車がバイパスの道路上で、
横転をしているのが見えました。運転手は外に出ていましたが、普通に
歩いていました。不思議な光景に見えました。
その後、祖父の血圧はどんどん下がっていき、定期的に来られる、看護師さん
から、家族に連絡をと言われました。
私は祖父の長男(叔父)に電話をしました。「早く来て、もう意識がなくて、
血圧がどんどん下がってる。」叔父はその後、なんとか駆けつけてくれましたが、
すぐに、他の家族を連れてくると言って、いなくなりました。
結局、私だけ残されて、とても不安でした。でも
可愛がってもらった祖父のために、づっと側に居なくては・・と思いながらも
なんだか怖かった思いが強く残っています。
祖父は看護師さんと、医師と私だけの室内で、臨終の時を迎えました。
叔父は来ていませんでした。私の母達も。
看護師さんが、あっという間に入り口のドアを左開きに変えて、
地下の霊安室に祖父と私を誘導していきました。

窓も何もない霊安室には、私と横たわる祖父しかおりませんでした。
すると祖父の顔にかかる、白い布が、風もないその部屋で、突然はらりとめくれ、
痩せこけて、目の落ち窪んだ祖父の顔が見えました。
背筋が凍りつくような、怖さを感じつつも、その白い布をまた、祖父の顔に
かけてあげました。不思議でなりません。
風が入る様な部屋では無いのに・・なぜ?

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