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私が、髪を半分だけ染める理由

「私のことを知っている人ならわかると思うけど、」という書き出しをすると、「おまえのことなんぞ知ったこっちゃねえよ」と思うのが普通なので、こういう場合はちゃんと自分の紹介をしなければならない。

私は、いつも髪を半分だけ染めている人間だ。(そしてようやくここで例の言葉だ、「私のことを知っている人ならわかると思うけど。」)

半分というのは、髪全体の下半分のことだ。いまは肩よりも長く伸ばしているから、耳から下の半分くらいを、いつも自分で好きな色に染めている。このスタイルを、ここ3年くらい続けている。

髪の半分だけを、好きな色に染める。これは、実は自分の中で大切にしていることのひとつだ。

大学生になると、「髪を染めてもたいして人に文句を言われない」という自由を手に入れた。当時、好きなアーティストの髪が鮮やかな赤色だったので、美容院でそのアーティストの写真を見せて「こんな風にしてください」とお願いした。

2時間後、私の髪は輝く赤色....ではなく、赤味を帯びた茶色になっていた。美容師は私の背後でせっせと鏡を動かしながら、「可愛らしさを出すために、茶色を入れた赤系にしてみました。どうですかー?」と笑っていた。私は、そういうことじゃねえんだよ、という言葉をぐっと飲み込み、へんな笑顔で「ありがとうございました」を喉から絞り出した。

それ以来、思い通りの髪色にならないくらいなら、自分で納得いくようにやった方がマシだと、自分で髪を染めるようになった。いろいろな染髪剤を買い、夜な夜な風呂場で試す。赤、青、緑、ピンク、紫、オレンジ、黄色、ターコイズ。全部混ぜて、夜空のオーロラ色、ユニコーンのたてがみ色、銀河の星雲色... いつしか、私は風呂場を「ラボ」と呼ぶようになった。薄っすらと色づいていく風呂場の床を見て「またやったでしょう」と呆れ笑う母親に、「うん。今回の色、どう?」と、私は髪を振っておどける。

いつも、髪は全体の下半分だけ染める。上半分は、自分が持つもともとの髪の色を残している。全部は染めない。ポリシーというほどの覚悟はべつにないけど、なんだかこのスタイルが好きで、ずっとそうしている。今までわざわざ人に説明したことはあまりなかったから、理由を教えてあげる。

好きな色に染めている下半分の髪は、自分が受けたインスピレーションや、感情の変化や気分の移り変わり、理想とか夢とか希望を表現していることが多い。言ってみれば、自由に絵が描けるキャンバスみたいなものだ。

街ですれちがった素敵な人や憧れのアーティストの色を真似したり、新しい環境に身を置く日には髪も試したことのない色にしたり、落ち込んだ日はあえて鮮やかな色でテンションを上げたり、好きな人に会って心が浮わついたときはピンク色にしたり、美しい自然を見たらその風景を思い出して色を作ったり....そんな感じだ。

だから、しょっちゅう髪の色が変わるけど、適当にやっているわけではない。もともと感情が顔に出てしまいやすい性質だが、髪も同じで、何かに突き動かされて衝動的に染めることが少なくない。顔は口ほどに物を言うとはいうが、私の場合、髪は顔よりももっとたくさん物を言うのだ。

でも、そんなに物言いをする髪なら、なぜ下半分しか染めないのか。なぜ、上半分は染めずにもともとの色を残しているのか。

それは、自分の髪の色が好きだからだ。私の地毛の色は、大きく分けたら黒だけど、よくよく見たら、いろいろな色が混ざってできていると思う。自分が持っている髪の色は、どのドラッグストアの棚やAmazonの巨大倉庫を探しても、きっと見つからない。これは元来、私しか持っていない色なのだ。もちろん、あなたの色も、そう。

だから、半分は好きなものや憧れやキラキラした理想を塗ったくって楽しむけど、もう半分は素直な自分のままで勝負したいというか、何もまとっていない本来の姿でありたいというか、そういう気持ちなのだ。

ときどき、会う人ごとに自分の性格や振る舞いが変わってしまうのが嫌だ、という人がいる。私も、会う人ごとにいろいろな自分がある。好きな人といるときはよく笑うし、気の置けない仲間といるときはリラックスしすぎてだんまりになるし、苦手な人といるときは変な顔をしていると思う。

そんな、場面ごとに変わってしまう自分が気に食わないこともあったが、まあそれは仕方がないし、実は人間にとってはごく自然なことであると、いまは思っている。瞬間ごとに変わってしまう自分も、まぎれもなく、それは自分なのだ。

私の半分の髪の色も、日々変わっていく。でも、半分は変わらずに同じ色がそこにある。どっちの自分も、まぎれもなく、自分だ。

好きな色で綺麗に取り繕うのも楽しいが、ちょっと冴えない素の自分も、なんだか愛おしく思えて好きだ。


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