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【日本国記】 限りなく真実に近いアナザーストーリー 5 邪馬台国と欠史八代         土方水月


 日本の歴史書は日本書紀が最も古い正史と一応なってはいるが、ほとんどはったりで書かれているといわれる。しかし全く根拠のないものを書いたわけでもなく、今の日本人の起源を表してはいる。また、古事記は帝皇日嗣とはずいぶん異なるらしいが、それでもまだ史実に近いといわれる。それに比べて日本書紀は半分以上が対中国(唐)用に創作された内容となっているといわれる。

 古事記や日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇であった。日本の国号になったのは文武天皇の御代である701年ではあるが、日本書紀の編纂を命じた天武天皇は、唐に敗戦した倭とは違う、新しい国が作られた形にしようとした。そのため、唐の都を真似て条坊制の新益宮を建設しようとし、道教を信仰し、天智天皇とは異なり、唐に対する親和政策を行おうとした。

 日本の明らかな文明の起源は、出雲族の渡来であった。5,000年以上前の三内丸山遺跡も彼らが住んでいたといわれる。そして彼らはインドからやって来たといわれる。その時代は縄文とも呼ばれるが、明らかな文明を持っていたのは出雲族であった。弥生の遺跡よりもはるかに巨大な建造物を造っていた。三内丸山遺跡の栗の大木で出来た建造物もそうであったが、出雲の杵築大社ははるかに大きかった。高さは約19mあったといわる。「雲太和二京三」ともいわれ、京の大極殿よりも、大和の東大寺よりも高かった。 

 古事記にしろ、日本書紀にしろ、ここは省かなかった。なぜなら、これらの編纂責任者は藤原不比等(史)であった。彼は中臣鎌足の子ではあったが、天智天皇の御落胤であったのではないかという説もある。平清盛と同様で、それが周知のことであったなら権力を握るのに有利であったであろう。

 さらに、中臣家は今の千葉県総国の仲国の富家であった。出雲の東王家富家を起源とする。アメノコヤネを祖とする藤原氏は、アメノフトタマを祖とする忌部氏とともに、出雲の出であった。古語拾遺によれば、天富命が天日鷲命の子孫を連れて、四国阿波国から太平洋沿岸を北上し総国に至り、麻を植えたといわれる。麻植神とも呼ばれる天日鷲神は、天照大神が天岩戸に隠れたときに奏した弦の先に鷲が止まり、金鵄と同じ吉兆を表すとされそう命名されたといわれる。

 天富命は言うまでもなく、東出雲王家の富家のことである。東出雲王家富家と並んで西出雲王家には神門臣家があった。この家系には臣がつくことが在るがそれは後世の「臣」ではなく、「王」の意味であった。蘇我馬子は大臣であったが、これは後の官位の「臣」ではなく、「大王」の意の「大臣」であり、天皇の「大君」とならぶ「大臣」であった。つまり祭祀王が「大君」であり、統治王が「大臣」であった。なぜなら蘇我氏の祖は武内宿禰であり、代々武内宿禰を継いでいた。そして初代武内宿禰は成務天皇と双子であった。つまり、景行天皇の子であった。

 藤原不比等(史)も同様の立場であった。権力を持っていた。乙巳の変でヤマト蘇我氏を滅亡させ、出雲富氏を復活させたのであった。そのため、富氏の家系を初代大王としたのであった。ヤマト蘇我氏からすれば出雲富氏は国譲りをさせた相手であり、宿敵であった登美ナガスネヒコの家系であった。

 藤原不比等(史)は考えた。国譲りはしたが、出雲の富家を祖とし、後の大王家につながる王を初代大王とした。そのように古事記と日本書紀をうまく編纂した。そのためどちらの側からも事実でない歴史書となった。初代大王は大王ではなかった。欠史八代ともいわれるように、実際にはいたが、大王ではなかった王を初代から九代までにした。それは出雲の国譲りを起源とし、出雲王家とつながることによってはじめて正当な大王として認められるという形を作りたかったことと、後の今の天皇家につながるヤマト王家とをつなぐために、実際にはつながってはいなかったヤマト王家の祖ニニギノミコトを初代大王の祖とするために、ほんとうの初代大王の祖ニギハヤヒノミコトを兄弟にしたのであった。

 ヤマト王家は大倭であった。大倭は応和であった。もとは「やまと」ではなかった。九州から東征し、今の畿内を制し、そこにあった邪馬臺(やまと)の表記を大倭に変えた。そしてそれを大倭(やまと)と読ませた。そして大倭は応和となり大和となった。第十代崇神天皇の御代からであった。

 邪馬臺はもとから「やまと」であった。邪馬臺国はもと九州にあって、東へ移ったという人もいるが、邪馬臺国が九州から移動したのではなく、崇神天皇の東征により大倭が東に移り、もとからあった邪馬臺国の表記を換えたのであった。邪馬臺国は「やまとこく」であり、もとから畿内にあった。しかし崇神天皇の東征により、またその表記が大倭となったことにより、崇神天皇が九州にいたときの場所を道程として記載した“魏志倭人伝”は、邪馬臺国の場所をわからなくしてしまったのである。

 邪馬臺国は今の奈良県にあった。そして、初代大王はニギハヤヒの孫であり出雲王家の流れであるの海家の王であった。彼は高尾張に住んだことから、その家系は後に尾張家とも呼ばれた。そしてその后は出雲の王の姫であるタタライスズヒメであり、二代大王の后もその妹イスズヨリヒメであった。三代大王は出雲の血が濃くなり、出雲磯城家と呼ばれた。出雲の王が古事記や日本書紀の中でアシハラノシコオと書かれるのはそういう意味である。

 邪馬台国とはそういうものであった。そして崇神天皇も欠史八代のひとりでもある開化天皇の家系と婚姻することにより、本当の初代大王として“崇”と後に名付けられたのであった。欠史八代はあったが、崇神天皇を初代と考える大倭からすれば、ないことにしたかったのである。しかし、出雲の流れをなくしたくなかった藤原史は欠史八代をあえていれたかったのであった。第九代開化天皇までは畿内の王であって、大王でもなんでもなかったのである。


 そして卑弥呼は祭祀王であった。邪馬臺の祭祀王はヤマトモモソヒメであった。しかし彼女が亡くなったのは198年であった。そしてその同年に崇神天皇も薨っている。そのときトヨスキイリヒメは13歳であった。そしてその時代は崇神天皇と垂仁天皇の時代であった。そしてさらに、トヨスキイリヒメが亡くなったのが239年であった。卑弥呼は姫巫女ではあったが、姫巫女は「ヒメミコ」とは読まない。姫巫女は「ひめみかんなぎ」と読むのであり、卑弥呼は「姫と呼ぶ」と読むのであった。


卑弥呼も邪馬台国もそういうものであった。


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