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【日本国記】 第二章 5・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい― 土方水月 

2 始まりは平安京から

 
 「日本」は701年にできた。

 しかし今の日本の始まりは平安京から。794年に長岡京から遷都した京都(みやこ)は平安京と呼ばれた。山城国である今の京都府に遷都したのは桓武天皇の御代と学校では習うが、桓武天皇が遷都したのではない。

 桓武天皇の父は光仁天皇である。光仁天皇は60歳を過ぎていた白壁王の時、藤原百川によって天皇になったといわれる。独身の女帝であった称徳天皇の崩御による次期天皇決定の場面で、誰が次期天皇になるかについての憶測が飛び交っていた最中、会議が開かれた。会議では通常下級の公家から発言するという。参集していた公家の中での末席は藤原百川であったといわれる。詳細は別に譲るが、崩御した称徳天皇の遺勅が見つかったという。そのとき藤原百川がその違勅を読んだ。そのとき彼は「白壁王」と読んだが、実際は智奴王である「文室浄三」と書いてあったという。そしてその「文室浄三」と書かれていた遺勅を白壁王に見せたあと燃やしたといわれる。

 これにより白壁王は天皇に即位し、藤原百川は力を持って行くことになったという。そして、かの有名な宇佐神宮神託事件によって流されていた和気清麻呂が称徳天皇の崩御により復権し、藤原百川は和気清麻呂と組んで、和気清麻呂が国司であった山城国に遷都することとなったともいう。一旦は長岡京に遷都したが、藤原種継暗殺事件に関与したという冤罪によって廃太子され亡くなった早良親王の怨霊によって長岡京から平安京に遷都することとなった。

 幼いころから後の桓武天皇である山部親王が優秀であったこと知っていた藤原百川は、力のなかった白壁王を天皇にすることによって自分の力を発揮できるように画策したのではないかともいわれる。当初は他戸親王が皇太子となっていたが廃太子された結果、山部親王が皇太子となり桓武天皇として即位することとなった。

 新たに遷都することとなった平安京は、藤原百川と和気清麻呂の意思を継いだ、藤原小黒麻呂と秦河勝の子孫である秦島麻呂(太秦公嶋麻呂)とによって造営された。藤原百川が式家であり、藤原小黒麻呂が北家であることからも、これらの成り行きには藤原百川単独の仕業ではなく、「藤原氏」の意思であった可能性が高いと思われる。

 いずれにしても、藤原不比等の子孫である「藤原氏」と秦始皇帝の末裔であるともいわれる「秦氏」の力で造営された平安京は、聖書にある東の果てにできた千年王国となった。

 「東京遷都」の詔はまだ出てはいないといわれる。「東京環都」であって遷都ではないという。そして当初、東京は「東京」とは書かれず、「東亰」と書かれたという。今でも平安京は京都(みやこ)であった。千二百年以上続く平安京(エルサレム)であった。

 山城守の祭りが「葵祭」であり、秦氏の祭りが「祇園祭」であり、京都三大祭りのうちの二つである。

 今年の「葵祭」には平成太上天皇太上皇后も来席された。「葵祭」はもとは「賀茂祭」である。平成太政天皇は「天皇」を譲位するにあたって糺の森に行幸した。賀茂大御神に「糺」ための行幸であった。

 賀茂大御神は神武天皇と兄弟ともいわれる賀茂別雷神である。賀茂大御神は山城国の上賀茂に。そして、山城国は和気清麻呂が、、、。そしてさらに「祇園祭」は7月17日に行われる。この日は、、、、。



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