良くなってるのか逆なのかわからないこと
2010年の8月末に山梨に帰ってきたのだけれど、その頃はまだガラケーだったし、ネットもリビングのパソコンで毎日30分閲覧するくらいだった。その時に今ネットに費やしている時間何をしていたんだろうなと思う。
今よりずっと図書館に行っていたので、たぶん本は結構読んでいたんだろうな。あと、昔から持っていた漫画もかなり読み返していたと思う。ああ、思い出した!結構長電話もしていたと思う。今長電話って殆どすることがなくなった。
今より得ている情報って圧倒的に少なかったと思うのだけれど、頭はもっとクリアだったんだろうか。もっと回転していたんだろうか。もっと視野が狭くて世間知らずだったんだろうか。
今でも、ネットで初めて知って、本来ならもっと前に知っておけばよかったなと思うことはたくさんある。生きづらさについての悩みとか、悪い生活習慣とか、社会問題とか。
でもたぶん、知った瞬間にそう思って今は忘れていることもたくさんある。本で読んだことのほうが結局よく覚えているなと思う。
自分の知識は、どこで得て今も活用していて忘れてしまったことは何かとか、全部一覧で見ることができたらいいのになと思う。
得る情報が多すぎて、端から忘れてしまっているなら、やっぱり吸収するものを制限して、いいなと思ったものは長らく心に残っている方が意味があるよなと思う。
最近映画を結構観るようになったけれど、好きだと思っていた映画も、大まかなストーリー以外だいたい忘れていてびっくりする。
逆に言えば、今何も見なくても覚えていることって、自分にとって本当に好きだったり面白かったり嬉しかったり、衝撃だったりしたことなんだなあと思う。
たぶんそれらの種類って、これからもあまり変わらない気がしていて、自分を楽しませるには、それらを参照していたら間違いないんだろうな。
以前男爵が言っていた表現なんだけど、道端で拾った正義感を振りかざしていたこともあったなあと思う。でもその時に怒っていた内容は結構覚えていて、そして今そんなにムカついたりしないなあと思う。何かに怒りたかった時期だったのかもしれない。そういうときって自分の人生が上手くいっていなかった気がする。
怒りが悪というわけじゃないのだけれど、抱くにしても建設的な怒りにできたらいいなあということと、自分が怒るべきこととそうでもないこともあるよなあと。
今ネットを見ていて自分が不愉快だなあと思うことの要素って多かれ少なかれ、多分全部自分の中にもあるから、1ミリも理解できないということは、言ったこともあるかもしれないけれど、実はそんなことないんじゃないかとも思う。
ただそれらの取り扱い方は、以前よりましになっているなあと思って、それは生きやすくなった点でもある。
それはネットにたくさん触れたからなのか、触れなければそもそも考える必要のなかったことなのか、今もよくわからないけれど、10年後にはわかっているかも。
いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。