牧髙光里

中日翻訳者です

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1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑪

1993年1月23日 4日目その4 売って売って売りまくれええええ! ロシア領内に入って最初の夜、それまでの食っちゃ寝生活が激変した。車両全体が春節のお祭り気分に包まれていた前夜と打って変わって、騒然とした雰囲気が充満している。日本のそれよりも背の高い列車が駅に到着するたびにホームと車窓を喧騒がつなぎ、見上げる人と見下ろす人の間で大声、怒号、罵声が飛び交った。あの餃子、もうちょっと食べときゃよかったなあ腹減ったーと、ほんの二十四時間前のできごとを昔のことのように思い出したの

    • 1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人➉

      1993年1月23日 4日目その3 「包帯あるか?」 男の推定年齢は二十代後半から三十代前半。ジーンズを履いて茶色のジャケットを着ている。顔立ちと体格、そして旅行者らしからぬ薄着の格好から察するに、ロシア人のようだ。そして奇妙なことに、脇腹を押さえ体をやや前かがみにして立っている。男は私の顔をまっすぐに見据えながら何かを言ったが、もちろん私には分からない。するとアンナが「包帯あるかって聞いてるよ」と通訳した。 そんなもの、持ち歩いているわけないだろう。私の知っている三つの

      • 1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑨

        1993年1月23日 4日目その2 ついに食堂車デビュー!  それにしても、ほんの一週間ほど使わなかっただけなのに日本語からものすごく長い間離れていたような気がするってことに、我ながら驚いた。そして同時に、「そうだ! 言葉を話すのって、そもそもこれくらいスイスイラクラクなことだったじゃないか!」と頭の中で叫びながら、母語と自分との一体感を噛み締めていた。おそらく吉岡さんも同じように感じていただろう。グストーたちとアンナが出会ったときも、多分そうだったんじゃないか。 当たり

        • 1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑧

          1993年1月23日 4日目 「きれいさっぱり荷物を盗られちゃったんですよーははは」 昨夜はあのあと、もうお腹いっぱいだと言うのにやれ食えそれ食えとマグカップを押し付けられ、結局三度も器を空にした。一生分とは言わないが、半年分くらいの餃子は食べたようなやや過剰気味の満足感。とはいえ上げ膳据え膳の年越し餃子は、今思い出してもやっぱり至福の味だった。たとえコシがなさ過ぎてお湯に溶けかけたような皮だったとしても。 夜更かしばかりしているので、このままでは体内時計が狂ってしまいそ

        1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑪

        • 1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人➉

        • 1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑨

        • 1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑧

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑦

          1993年1月22日 3日目 春節の訪れは餃子とともに その2 アンナと私は連れ立って、揺れる通路に足を取られながらいくつかの車両を通り抜けると、二人用コンパートメントのドアの一つをノックした。 さてこのポーランド人男性二人組。ちょうど親子くらいの年の差に見えるが、血縁関係はないそうだ。外国人の年齢を見る目がまったくない私が察するに、若い方が三十すぎ、年配の方が五十前後といったところだろうか。お若い方のお名前を仮にグストー、もうお一方をマテウスとしておく。グストーは背が高

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑦

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑥

          1993年1月22日 3日目 春節の訪れは餃子とともに その1 午前5時20分、車内いっぱいに音楽が鳴り響いて叩き起こされた。モンゴルとロシアの国境が近いことを告げるアナウンスが大音量で流れている。だけど実際に到着したのはそれから一時間以上も過ぎてからだった。夜更かししたのは私の勝手だけどさあ。それにしたってもう少し寝かせてくれてもいいじゃないの! 今回のモンゴル税関職員は男性だったが、この寒さで表情筋が凍てついちゃったんじゃないのと顔を覗き込みたくなるくらいの徹底した不

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑥

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑤

          ⑤1993年1月21日 2日目その3 「例の二人組がポーランド語を話していたから声をかけたのよ。北京で仕事した帰りだって言ってた。モスクワに着いた日は友人の家に泊まって、それからポーランドに帰るんだって。だから、『私たちは中国に留学中のポーランド人と日本人なんだけど、モスクワは初めてで色々と不安だから、ポーランドまでご一緒させてもらえない?』と頼んでみたの。そしたら、いいよって!」 「え? お友達のおうちに私たちも行っていいの?」 「いいって言ってたよ。二人くらい増えたって

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑤

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人④

          1993年1月21日 2日目その2  目が覚めた。 日はかなり高くなっているようなのに、あたりはシーンと静まり返っている。ほかの三人もまだ寝息を立てていて、コンパートメントの外にも人の気配はない。そして列車が止まっていることにも気が付いた。だから音がなかったのか。 窓の外を覗いてみたが、どこかの駅に着いたわけではないらしい。山もなく、街路樹も草も生えていない剥き出しの埃っぽい地面がのっぺりと地平線まで続いていて、その地平線と列車の間に、同じような色、同じようなかたち、同じ

          1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人④

          1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人③

          1993年1月21日 2日目 モンゴルのカラフル税関職員とトイレ問題 国際列車のイミグレーションはいかなるものかと興味はあったが、いかんせん眠い。しばらく眠気と戦っていたら、隣のコンパートメントの方から女性の、しかし野太く低い声がした。言っていることが分からないので、モンゴルの税関職員だろう。すると私たちの部屋のドアが勢いよく開き、若い女性職員が現れた。 日本の男性警察官がかぶっているような帽子、カーキ色のブレザー、後ろにスリットの入った同色のタイトスカート、防寒対策万全

          1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人③

          1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人②

          1993年1月20日~21日 モンゴルの国境越え 結局、巨大な荷物群が部屋の空間のほとんどを占拠してしまい、ふと見上げれば頭上から荷物に見下ろされているようである。荷崩れでも起きた日には大変なことになりそうだが、そうならないよう、行商人たちは紐やら何やらを駆使して荷物を固定していた。 ここまでですでに、一日の終わりを迎えたくなるくらいどっと疲れが出たが、気を取り直してアンナと一緒に朝ごはんを食べた。といってもメニューは前日に北京市内で買い込んだ軽食だし、車窓のところについ

          1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人②

          1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人①

          1993年1月20日 1日目 朝5時。目覚まし時計が鳴ると同時に、私はベッドから飛び起きた。 「暖气(ヌワンチー)」という暖房装置が夜通し効いているから室内はさほど寒くはないが、窓際に立つと、隙間から忍び込んでくる冷気が肌を撫でる。薄いカーテンの向こうはまだ暗く、人の気配もなかった。着替えて荷物をまとめ、6時前にアンナの部屋を小さくノックした。 「アンナ、準備はできた? そろそろ時間だよ」 小声で呼びかけると少し遅れてドアが開き、「おはよう、じゃあ行こうか」と大きなリュッ

          1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人①

          大人流、心の穴のふさぎかた

          「本当に欲しいものは、これじゃなかったのに……」 ついさっき近所のスーパーで買い求めた食材を買い物袋から出していて、『北海道産 北限の大地和牛 切り落とし 100g 608円』のラベルの横に3割引のシールが貼られたパックを見た瞬間、そう思った。 もともとはカレー用の牛肉を買いに行ったのだ。だが精肉コーナーの前に立つと、『焼き肉用 国産牛肩ロース 1200円』が目に入り、焼き肉が食べたいなとふと思った。でも今日はカレーにするつもりだったのに。家にはしなびかけた人参と芽の出か

          大人流、心の穴のふさぎかた

          一縷の望みが打ち砕かれ、言葉の通じない私は途方に暮れた

          「え、どうしよ……これでもダメ??? 通じない? 分かってもらえない?」 赤茶けた土とマンゴーの木の緑が強烈な日差しに照らされて、目に刺さりそうなくらい鮮やかだ。色とりどりの民族衣装に身を包んだ人たちが、大きなひょうたんでできたボールに食べ物やらなにやらを入れ、それを頭に乗せて大きな腰を左右に揺らしながら、ゆったりと行き交っている。一方私は、その広場の一角で店を開いている行商人のおばさんの前で途方に暮れていた。 当時の日記帳を開くと、1996年3月9日(土)晴れ、とある。

          一縷の望みが打ち砕かれ、言葉の通じない私は途方に暮れた

          「物語に物語に入っちゃった人」と比べられたとき、私は書くのが嫌いになった

          自分でも、ちょっと自信を持ちすぎていたかもしれない、とは思う。 だけど私にとって「作文」の授業はいくらあっても足りないくらい心躍る時間で、あの読書感想文も、書きたいことをすべて書ききったー! と心から満足していたはずだった。 小学5年生のときの、ある日の国語の授業だった。 大好きだった担任の先生が、 「先生にはどうしても選べないから、みんなに意見を聞きたい」 と、こんな話を切り出した。 市が作成する「市内小学校合同文集」に載せる読書感想文を、各クラスから一人ずつ選ぶこ

          「物語に物語に入っちゃった人」と比べられたとき、私は書くのが嫌いになった

          好きすぎて、忘れたくなる好きもある 好きだったのに、思い出せない好きもある

          大好きなのに、思い出すたび胸が痛むものがある。 狂おしいほど好きなのに、いや狂おしいほど好きだから、逆にそのことを思い起こすには、どうしたってその苦痛を受け入れなければならない。 「好き」は必ずしも「好き」だけでは出来ていない。 それはそんなに単純なものではないということを、四半世紀もたってから実感する、あるできごとがあった。 私と同じ、クラッシック音楽を聴くのが好きだという人と、ひょんなことから知り合った。 今日始まった間柄でも、趣味が同じというだけで、知らない者同士

          好きすぎて、忘れたくなる好きもある 好きだったのに、思い出せない好きもある

          新入社員だった私がン十年前に学んだ、社会人にとってダントツ大切なこと

          「今日はM社長が社員をお叱りに来られるそうなので、1時にショールームへ集合してください」 私がその会社に入ってまだ数か月のころだった。 バブル期の建設ラッシュで大もうけしたこの会社は数年前に念願の自社工場を新設した。 だが竣工とほぼ同時にバブルが崩壊したため、私が入社したときにはすでに巨額の赤字に苦しむ残念な会社に変貌していた。 それでこの会社は、かねてから資金援助してくれていたF社に買収されることになり、表向きは社名も社長も変わらないが正式にF社の子会社になった。 F社の

          新入社員だった私がン十年前に学んだ、社会人にとってダントツ大切なこと