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1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑤

⑤1993年1月21日 2日目その3

「例の二人組がポーランド語を話していたから声をかけたのよ。北京で仕事した帰りだって言ってた。モスクワに着いた日は友人の家に泊まって、それからポーランドに帰るんだって。だから、『私たちは中国に留学中のポーランド人と日本人なんだけど、モスクワは初めてで色々と不安だから、ポーランドまでご一緒させてもらえない?』と頼んでみたの。そしたら、いいよって!」
「え? お友達のおうちに私たちも行っていいの?」
「いいって言ってたよ。二人くらい増えたって大丈夫だって。お友達はロシア人で、中国に行った帰りはいつもその友達の家に泊まってるんだってさ」

あーよかった!!! 体中の緊張がふっと緩んだ気がした。『地球の歩き方』を読んでもモスクワの治安について悪い話しか書いていないし、電車の遅延は早々に確定したし、モスクワ駅でワルシャワ行きの切符がスムーズに手に入る保証もなかった。考えれば考えるほど不安要素しかなかった私たちに、救世主が登場した! しかし、だ。疑り深い私は、ついこんなことを聞いてしまうのだ。

「でもさ、その人たち本当に信用できそうな人?」

悪人は善人の仮面をかぶってやってくるのだ。人さらいにさらわれて、どこかの売春宿に売り飛ばされないとも限らないじゃないかと、とことんネガティブ思考な私である。しかしそんな私と対照的に、どこまでも楽観的なアンナは満面の笑みでこう言うのだった。

「いい人達だったよ。一人は若くて、もう一人はおじさん。どんな仕事なのかとか色々聞いてみたけど、普通のビジネスマンだったよ」

分かったよアンナ。君の感性を信じるよ!!!

「あの二人はモスクワからウクライナ共和国を通ってポーランドに入るんだって。ワルシャワに直接入るよりも、ウクライナを経由した方が国境越えが緩いとかなんとか言ってたわ。警察に意地悪されるのが嫌だから、イミグレが厳しい国境にはあんまり近づきたくないんじゃない? ウクライナには私の親戚がいるから、宿泊については安心して。25日の夜にモスクワに着いたら、彼らの友達のお家に一緒に泊めてもらって、26日の夜に彼らと一緒に夜行列車でウクライナに向かおう。で、27日にウクライナに着いたら彼らと別れて私の親戚の家に一泊しよう。そして28日の朝に出発したら、その日のうちに私の家に着くからさ」

どうよ私の計画は完璧でしょと言いたげな目で、アンナは私を見遣った。

それなのにまたもやちょっとだけ、別な懸念が頭をかすめるのだ。チェルノブイリ原発事故の影響だ。放射能の影響はないんだろうか。とはいえ事故が起きたのは1986年だから、すでに7年が過ぎており、今こうして鉄道も動いて多くの人が行き来している。「原発事故の影響は大丈夫?」なんて口にしたところで、まったくあなたって心配性だねえと一笑に付されて終わりだろう。ああ、自分のチキンハートっぷりがつくづく恨めしい。

「列車がロシアに入ったら、君の日本人の友達も一緒に食堂車で食事をしようって言ってたよ。そのときにあなたに紹介できるね」
「分かったよ。アンナ、ホントにありがとう!」

列車が進むにつれて気温も下がっているのか、昨日よりも寒いなと思いながら窓を見ると、内側のガラスに付着した霜がさらに広がっていた。飛行機に乗った時みたいに耳がツーンとするのも寒さのせいだろうか。寒さで震える私をしり目に、ウランバートルまで来てもなお、ドゥオドゥオたちの荷物は増え続けた。ウランバートル駅から積み込んだものなのか、ほかのコンパートメントや通路から持ち込んだものなのか分からないが、今やこの四人個室に、あり得ない量の荷物が詰め込まれている。荷物が積み込まれるたびに、さすがにもうこれ以上は入らないだろうと思っているのに、次の駅で見事にそれが裏切られる。為せば成るってこのことかもなあと、ここまできたらもう感心するしかない。

夜中の12時を回ったころ、四人で夜食を食べた。なかなかハードな仕事だと思うけど、怖い目に遭ったことはないのかとドゥオドゥオに聞くと、クスリと笑って「危ない橋は何度も渡ってきたよ」なんて言う。たくましいなあ。それから女四人のかしましトークに花が咲き、午前2時40分、ようやく就寝。

今日食べたもの。
朝食:なし(寝ていた)
昼食:チーズ、クラッカー、ツナ缶
夕食:チーズ、クラッカー、紅茶、バナナ
夜食:フリーズドライご飯、みかん、焼餅、カボチャのタネなど

今日こそは暖かいものを食べるぞと思っていたのに、またもや食堂車を使えなかった。「モンゴルの食堂車の料理は美味しくないから行く価値なし」と言うドゥオドゥオの言葉を信じて、食べなくてよかったってことにする。
(つづく)


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