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careとは何か?

久しぶりの投稿。

対人援助をしている人ならばどこかで考えるであろうテーマの一つ。
careとは何を指すのか。どう言った営みか。

職場の環境が変わり、関わる年齢層は大きく変わったもののcareし続ける姿勢は変わらないなと感じる今日この頃。
そもそもcareとは何か一度整理するために、書き留めておきたい。

考えるにあたって参考にした本がこちら。過去にもいろいろ読んできていてそこで構築されているものもあると思うけれど、思いつく中で印象深い本を2冊載せます。




『死と共に生きることを学ぶ死すべきものたちの哲学』
 竹之内裕文 著

緩和ケアの勉強会で取り上げられていた本。この方の論文に目を通し、本に目を通せたのは勉強会後だったがとても良かった。



『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』
 東畑開人著

東畑さんの本は好きでよく読ませて頂いているなかでの一冊。

どちらも内容はぜひ読んで頂きたいので書かない。。。


さて本題。
careとcureの違いは何かというような話は先に書いたように対人援助の様々な場でよくなされる。
cureを治すと捉えるのであれば、careは人を傷つけずに、時間を共有することだと私は思う。

人と対面で接している時は、物理的に同じ場所にいて、同じ時、ものを共有し過ごしていることが多い、というかほとんど。これらはあたり前のことで、施術をしているときも施術中など物理的に同じ場所にいて、同じ時を過ごしているので、話や場所そして時間は共有されている。その時に相手の話や症状に向き合って、否定せずに、傷付けずに共にいることがcareと捉えられるのではないか。
一方で時間を共有していない時はケアすることはできないのか。例えば過去や未来、その場にいないので物理的には共有していないが、時間が話の中では必ずや出てくる。過去や未来に共にいることはできないが、今この瞬間に共に考えて、想いを共有することは出来る。また、その人が私の前から去ったあとでふとした時にこちらもぐるぐる考える、それをいつかその人にフィードバックする。あの時こんな話をされてましたよねとか。このぐるぐる考えている時間は自体は共有されていないが、フィードバックすることで共有される。

このように、その場にいなくとも同じ時間に生きることはできるし、物理的には共有されていなくとも、話や考え、想いといったものは共有されcareに繋がるのではないか、と思う。

今回はひとまずここまで。
もう少し言語化できるようになったらまた書きます。

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