宗教と互助

今ある宗教が注目されてるが、日本人は某真理教のおかげで、新興宗教や宗教そのものを蛇蝎のごとく嫌っている。だがそのために「宗教」の本質が見失われている面もある。宗教とはそもそも何なのか

結論から言えば、宗教とは「互助組織」である。信仰によって救われたり、あるいは活動したりというのは副次的なものであり、本来は「統一目標」の中で増やした信者間で、あらゆる作業を「助け合うための組織」なのだ

「八紘一宇」という言葉がある。「世界は天皇のもとに統一されるべき」という考え方だが、この天皇を「為政者」として見ず「神様」として考えれば、この考えがキリスト教やイスラム教と何ら変わりがないことに気づく人もいるであろう

王権神授や教皇となど、宗教と統治を結びつけるものは日本のみならずあらゆる場所にたくさんあるが、それは「宗教があれば、互助が成立するから」である。誰も同じ神様を信じるものを、無下に扱いはしないのである。少なくとも、かつてはそうであった

天皇の神格化は、日本を統一して統治するために必要な「互助組織のための神様」だったのだが、日本は戦争に負けた時に、バックボーンにある天皇という信仰を失った。このため、日本から「宗教的背景」が消え去ってしまったのだ

世界中の国の中で、国教を捨てた国は数多くあれど、国家背景に「宗教」がない国は(よほど念入りに探せばあるかもしれないが)多分日本だけであろう。確かに日本には古くから「仏教」や「神道」といった宗教が存在するが、それらは全て同列であり、かつての日本では、これに先立つ「天皇」という「宗教」があった。天皇そのものが仏教を信奉していた時期もあったが、ある時期から天皇の神格化は行われており、遅くとも明治以降は、天皇は神様として扱われていたのは疑いない。

本来日本人がもっているホスピタリティの高さというのは、この「日本全体が一つの宗教を持ち機能していた」ことに裏打ちされたものであり、今でもある程度残っているのは、宗教が等しく日常に埋もれていったからであろう。わずかに残った「宗教的互助」である

いわゆる新興宗教も、失われた「天皇」という宗教にかわる互助のための組織である。戦後都市化が進み、それまで土着であった「宗教」(檀家や氏子といった制度)が、あらゆる部分でバラバラになっていく。新しく移り住んだ土地で新たに「宗教的互助」を受けるのは難しくなるのだ

そこで新たに宗教を生み出し、そこに互助を組み入れていった。互助のためにお金を出し合い、困ったときに助けてもらう。地域のためにボランティアをし、冠婚葬祭、特に婚と葬に関しては宗教組織で行う。この互助のための活動が「宗教」の本質であった

もし日本に「天皇」という宗教が残っていたのであれば、新興宗教がカルトになることもなく、天皇信仰における互助が残っていて、他の宗教も巻き込みながらあらゆる「互助」が行われていたに違いない、とワタシは考える。それぞれの宗教が同一になってしまった結果、互助が各宗教に任されてしまったのだ

日本がやたらと自己責任に厳しいのも、宗教がミニマムになり、互助が狭い範囲でしか機能しないためであり、それは同時に、宗教の互助の中にカルトの闇が組み込まれたということでもある

カルトがカルトたる所以は、必要なお金や人材を莫大に吸い上げるところである。しかしそれはカルトを宗教としてみた場合、互助のために必要な行為であり、しかし外から見ると「搾取」に見える。そして実際に搾取されているのがカルトがカルトたる所以なのだ

カルトの闇に触れ「許さない」となるのはわかる。が、その「互助のための寄進」に関して見れば、それそのものが「悪」ではなく、悪に見えるのは「互助される宗教」が、違うか存在しないためでもあるのだ

カルトは人を分断し、不幸にするものであることは疑いがないし、それが「宗教」を超えていることも疑いがない、しかし、その本質が「互助」であることを理解しなければ、永遠に宗教は敵となり「理解しがたいもの」にしかならないのではないだろうか。

幸いにして、現代には宗教と同等、あるいはそれ以上に「互助される組織」が存在する。いわゆる「クラスタ」と言われる同好の集まりだ。言い換えれば、このクラスタ間で互助が行われれば、宗教を世俗化しても、カルトが入り込む隙間は少なくなるのではないだろうか

カルトにハマるのは、互助する仲間がいないから、でもある。宗教的背景のない日本ではなおのこと、互助にみせかけたカルトの搾取にはまらないように「他に互助されるべきクラスタ」を見つけることが、宗教を敵視するよりも大事ではないだろうか

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?