大河ドラマ「いだてん」の敗北

まずはじめに、矜持の宣言。

大河ドラマ「いだてん」

この表記方式を積極的に使っていきたい。
あれは朝ドラでも、大河ドラマの忌み子でもなく、日本の芸能史に燦然と輝く「オリンピックを題材にしたNHK製作の大河ドラマ」であることを主張するために、多少長くなるが「大河ドラマ「いだてん」」と表記をしていきたいと思う。

大河ドラマ「いだてん」を終えての感想


大河ドラマ「いだてん」の最終回、感動的でした。老人になった金栗四三がトラックを回りながら、次々と今までの登場人物が加わって、全員でゴールするシーンに、「そうだよ!それが見たかったんだよクドカン!!」と涙を流してテレビを見ていました。隣にいた母上が「そんなに泣くところかね?」といってたけど、なんせ「1年間待ち望んでいた決着の瞬間」(Gガンダムリスペクト)なのだからしょうがない。

…すいません、嘘つきました。この原稿2019年の11月2日に書いてます。
まだ放送されてません、最終回。
んでも、多分合ってるはずです。だいたいのところは。

大河ドラマ「いだてん」は「敗者」である。

大河ドラマ「いだてん」は、低視聴率、低人気、打ち切り直前、というか民法なら打ち切り確定のドラマで、ポツンと一軒家みたいな「やらせバラエティ(ここでいうやらせは演出の意味である)」にリアルタイム視聴で敗れたのは事実である。

この事実から、目をそむけてはいけない。

もちろん視聴率はリアルタイムで、私みたいに全話録画(全録はいいぞぉ…)で見た人の視聴率とは離れているだろう。Twitter上では確かに盛り上がっていた。しかし、それを持ち出したところで、リアルタイム視聴率がクソみたいな数字だったことは、疑うべくもない事実なのだ。
ネット上の評価が異常に高いのも、いわゆる「でんでん現象」というものだろう。視聴を切った視聴者が離れた結果、未だに残っているコア層の評価が異常に高くなる、というもので、「平清盛」なんかもこの傾向が強い。これは決して大河ドラマ「いだてん」が高評価をうけるべき作品である、ということを指してはいない。むしろそういった「実はいい作品なんだよ」というのは、作品に対する正しい客観的な評価とは正反対にあるといっていいだろう。

繰り返すが、この事実から、目をそむけてはいけない。

まあ、目をそむけなかったところで、リアルタイム視聴率に何の意味があるんだ?とか、コア層にだけ受ければそれでいいじゃん、っていうのはもちろんあるんだが、大河ドラマ「いだてん」が「裏番組にリアルタイム視聴率で負けた」理由については、分析する必要があるかもしれない。
これから「宮藤官九郎(クドカン)」が何を思い、どういうドラマを作り、それがどうして低視聴率になったのかを、私なりに分析してみたいと思う。

「この大河ドラマは主人公のリレー形式です」

私は学生時代から「日本史」を専門にやってきた。大学は美術史をやり、雪舟の論文で卒業した。
日本史を選んだ理由の一つに、小学校の卒業のときに先生に「中学になろうが高校になろうが、聖徳太子は聖徳太子だし、やったことはかわらない」と言われたのがあった。中学校でも高校でも大学でも、徳川家康は徳川幕府を開くし、日本はドイツイタリアと組んで戦争して負ける。

大河ドラマ「いだてん」の主人公が「金栗四三」だと聞いた瞬間に、私はこのエンディングは「金栗四三が1967年に「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」でストックホルムオリンピックのマラソン競技をゴールするシーンが最後になる」と即座に思った。それは私がことを知っていたからである。
金栗四三は54年かけて42.195kmを走る。これは何年立ってもかわらない。
そう、最初から大河ドラマ「いだてん」のラストは、ネタバレになっていたのである。

クドカンのところに「来年の大河ドラマの話」が行った時に、どういうふうに作るか考えたら、この「54年かけてマラソンを完走した、日本人初のオリンピアン」という話に行き当たったのだろう。こんな面白い、ドラマみたいな話があるか?

だれだってそうする。オレもそうする。(虹村形兆リスペクト)

んでも、ここで大きな問題に行き当たる。

「これ…どうやって説明するんだ?」

(モヤモヤモヤーン)
「はい!次回の大河ドラマの製作発表です!タイトルは「いだてん」。主人公金栗四三は54年かけてストックホルムオリンピックの42.195kmを完走した日本初のオリンピアンです!」

ぶちこわしだ!推理小説のオチを最初に言うやつがどこにいる!!

そう、ちがう、そう!(田畑のマーちゃんリスペクト)こんなことできるわけがない。1964年のオリンピックに全く絡まない金栗四三の生涯を追い続けたところで、最後のオチを言われてしまったらなんにも面白くない。

だが、だからといって、金栗四三の生涯を追い続けるには、大河ドラマにはなりえない。彼は東京オリンピックにもほとんど関与せず、完走するまでの54年のうち、52年ぐらいは市民ランナーや学校の先生として過ごしていて、歴史上のどこにも登場しない。

そこで目をつけたのが田畑政治。金栗四三が眠っている間、彼の話をやろう。金栗と田畑の間は脚色で埋める。そんなに長い期間にはならないはず。そうだ、リレーだ、リレー形式だ。

クドカンの偽装(フェイク)

クドカンは様々なフェイクをこの大河ドラマ「いだてん」に盛り込んだ。

「金栗四三→田畑政治の主人公リレー」ではなく「金栗四三→田畑政治→金栗四三の主人公リレー」だった。
東京オリンピック噺と銘打ちながら、東京オリンピックだけではなく「東京で起こったオリンピックの話」を主軸にした。

そう。東京オリンピック招致なんざ、完全にマラソンを走り抜くための伏線でしかないのだ。
最終回1回手前でさ「あれ?今日終わっちゃうの東京オリンピック。あと1話何やるの?」って思わせるあの演出。ナレーションも何もなく、黒い背景に白い字で「最終話 54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」って出たときの感動。(いや最終話のタイトルは違うかな?…まあ見てないからわかんないやw)

ここに至るためなら、様々な制約が生まれてくる。
まずナレーションを金栗四三にできない。なぜなら「金栗四三は主人公のバトンを田畑政治に渡した」と思わせなければいけない。回想シーンでだけ出てきて、最後にバトンを受け取ったときに「じじいだ!金栗四三がじじいになってる!」ってやらないといけない。ナレーションの声が若いままで、最後急にに老けるのは、同じ時間軸を進んでる人間にしては不自然であろう。

そこで抜擢されたのが、ほぼ同じ時間を生きてきた古今亭志ん生という存在だった。

と言いながら、その志ん生のナレーションも、心無い外野からのクレームで若い古今亭志ん生から年老いた古今亭志ん生にスイッチできなかったってのがあるんですけどもね…あそこどうするんだろ(※くどいようだが今は11月2日でまだ大河ドラマ「いだてん」は終わっていない)

そしてこの「ナレーションへのクレーム」から、クドカンの思惑がことごとく外れ始めるのである…

思うように進まない「クドカンの思惑」

まずケチがついたのは「ナレーション」だった。「ビートたけしの滑舌が悪い」という評価は、私は概ね間違ってなかったと思う。なんでビートたけしにしちゃったのかなあ…ここはやっぱり人選ミスだったのではないかな、と思う。ただ、志ん生を使った意味というのは先に述べたとおりであり、脚本の意図としては正しいだろう。

次が「時代ジャンプが激しすぎてついていけない」というもの。話の伏線を引く以上、これは仕方のないものであった。金栗時代の人間は田畑政治時代後半には当然ほとんど生きていないし、登場人物はざっと計算して2倍になる。

極めつけはピエール瀧降板による役者の交代である。3つもトラブルがあれば、大河ドラマ「いだてん」を応援するより、徹底的に批判するまさに「逆風」が吹き荒れる結果になってしまった。

この逆風はまさに「思いもよらぬ計算外」であった。が、もっと計算外だったのは「観客が思っていた以上に調べなかった」ことであろう。
先程も言ったが、金栗四三が54年かけてゴールしたことは調べればわかる事実なので、不明なことがあれば「調べる」のだと思ったのだろう。54年かけてゴールしたという事実はどう考えても「みたい!」となる要素だったはずだ。

ところが観客は(外的要因もあったと思うが)クドカンが思ってた以上に、金栗四三を調べなかった。知っている人間は当然ネタバレになるので発言もしない。結果クドカンの最も描きたい最後のシーンは、ファンの意図とは別に完全に封じられてしまうことになってしまったのだ。

NHKの矜持

・ケチがついたことによる完全な逆風
・金栗四三のヒーロー性が完全に「知る人ぞ知る」情報になってしまったこと。

これにより大河ドラマ「いだてん」は完全に死んでしまった。
裏番組に負け続け、大河ドラマの最低視聴率を更新し続ける姿は、本当に見ていて辛かった。なんせ「ドラマの本質」とは全く違うところでついてしまった「ケチ」なのだから。

ドラマの中身がどれだけすごくても、エンディングがどれだけ泣けても、もう大河ドラマ「いだてん」は、生き返ることはない。生き返ることはなかったのだ。

しかし、それだけ苦境に立たされた大河ドラマ「いだてん」は、決して死ぬことはなかった。ファンの声援を、NHKは拾い続けたのである。
低視聴率克服のための様々なテコ入れが無駄に終わると思えたのは、ファンの声援や熱量が異常に高かったからであろう。

一方NHKも「視聴率」にとらわれることもなく、何度も何度も起こる「打ち切り」の声をはねのけ、最後まで走らせてくれたことには本当に感謝している。
おそらくではあるが、視聴率が下げ止まったことや、満足度がすこぶる高かったこと、タイムシフトの視聴率が比較的良かったことが大きいのではないかと推測するが、いずれにせよ我々ファンと、NHKの矜持によって、大河ドラマ「いだてん」は守られたといっていいだろう。

大河ドラマの行く末


しかし、守らなければならないぐらい大河ドラマ「いだてん」が弱ったことも事実である。
そして、大変残念なことに、この題材ではもう大河ドラマが作れないことも確定したのである。

今後大河ドラマの題材は、戦国時代と幕末明治に限られるのであろう。

クドカンの失敗は「誰も調べようとしなかったこと」である。「わからないことがあれば調べるだろう」という前提が崩れたところで、大河ドラマ「いだてん」の敗北は決まってしまったのだ。それはすなわち、大河視聴者層の「読解力」と「推理力」の低下ということなのだ。

戦国時代、幕末明治なら、黙っていても自分たちの知っているものが流れる。
自分たちの知らない時代は「面白くない」と言われる。
実に「令和らしい」というべきなのかもしれない。

大河ドラマ「いだてん」の敗北。
いや、大河ドラマ「いだてん」が負けたのではなく、負けたのは「日本人の読解力」ではないだろうか。

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