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駄文#24 半分こせねばならぬとき

こんにちは、抽斗の釘です。

海の日と聞くと山を思います。

なぜなら海の日にまつわる山の思い出があるから、
というわけでもなく、自然と海とくれば山を連想してしまいます。
これはなんというか単純なあまのじゃくの連想、といった感じでしょうか。
とにかく私は海の日に山での思い出に耽るのです。

毎年1年に一度、ある山へ初詣に登るのがここ数年のゆるい習慣になっています。
標高900メートルぐらいの、登山界では初級~中級ぐらいとされるそれほど高くない山で、登りに3時間、下りに1時間半ぐらいをかけ、友人とふたりで歩きます。
「三つ参り」と呼ばれ、子供が三歳までに登れば病気をしないといういわれもあるそうで。
三歳が登るにはかなり無理があるのではと思いつつ、ちらほらと子供の姿を見つけ、はあと感心したりします。
ともかく日頃運動をしていない我々にとってなかなかハードなものであり、1年の運動不足と衰えを実感するという目的もあったりします。

冬の山ですから、ある程度登ると積雪などがちらほら見え始め、時期によれば山頂付近の参道は凍り、アイゼンなどがないと危険なぐらいには険しい道です。
今年は時期が遅く道が凍ることはなかったのですが、3時間も山道を登り続けると冬でも汗だく、山頂近くでは上着を脱ぐと湯気が昇るほどでした。

足の筋肉を使い切り、ぶるぶると膝が揺れてもまだ頑張ろうと思えます。
それは何より、昼めしのため。
それが唯一の楽しみなのです。 

昼めしはコンビニで買ったおにぎりとカップラーメン、そしてチョコレートバー。
山頂での景色とキャンプ気分には、湯を沸かし食べるカップラーメンが格別なのです。あれは外での食事を前提に製品開発されたのでしょうか。

我々はいつも、3分も待てずに蓋を開けます。
湯気が玉手箱のごとく、至極の時間を演出します。
少し硬いちぢれ麺は箸で容易にすくえ、それでも我々は、箸よりも先に口で迎えに行ってしまう。
ぞぞぞと一息にすすると、口に広がるあの男前な塩分。
そして深いうまみの味わいが織りなすその包容力。
いくらでもいける。いつまでもいける。

と、それほど山の上で食べるカップラーメンはおいしいのです。
そしてそのあとにはコーヒーを淹れ、デザートにチョコバーを食べるのもまた、疲れた体がほっとします。

今年も例年通り山頂の神社でお参りを済ませ、さあ、めしだと、ベンチに積もる雪を落としリュックを広げたその時です。
私は半べそになりながら友人に訴えました。
「昼めし、置いてきちゃった」

鞄の中に手を突っ込んで昼めしを探せど、着替えや折りたたみ椅子や飲み水に触れるばかりで、昼めしを包んだコンビニのビニール袋のあの乾燥した手ごたえがないのです。
あれ? これは違う人のリュックかな?
と、そんなわけもなく、

私は瞬時に登山前の出来事を思いめぐらしました。
少しでもリュックの重量を減らそうと、一度すべて荷物を出し整理していたのです。
ああ、あの時、車の中に広げて、それから入れ忘れてしまったのだ。

頬を伝う汗は涙だったのかもしれません。しかしそれも乾いてしまうほど、もう体は冷え切っています。

昼めし抜きの登山は生死にかかわる問題です。
いまそう言えば大袈裟のように思いますが、体力と筋力と気力が限界の状態での補給不可は、車のガス欠に相当するでしょう。食わねば動けないのです。
そして何より、得られると思っていた楽しみが一息に消え失せた落胆があります。それでは何のためにここにいるのだとの悲観に打ちのめされます。
手元には飲みかけの水だけ。味気ない水。
もちろん、山頂の神社には売店などはありません。

立ちすくむ私に、友人は言ってくれました。
「これふたりで分けようよ。」
友人の手にはおにぎりとカップラーメンが1つずつです。
そして何の含みもない微笑み。
その微笑みが山頂の木漏れ日に照らされ輝いています。後光が差すように。
私は申し訳なさと情けなさで忍びなく、いまにも拝みださないばかりに背を丸めました。
30代のいい大人が、遠足に弁当を忘れた小学生のような失態をおかしたのです。
けれど断る気もさらさらありません。
私はずうずうしくも、はなから半分分けてもらう気でありました。
ただ、楽しい昼食が物寂しくなることには、申し訳なさがありました。
それは彼の満腹を半分奪うすまなさと、自分の腹が半分しか満たされない寂しさです。
それは友人も同じだったでしょう。
せっかく3時間も登り続けて、へとへとのうちに予定していた半分しか食べられないのです。
「すまん、すまんな」
と、私はリュックの中に再び手を突っ込みました。
せめてもの癒しは湯を沸かして飲むブラックコーヒー。
リュックの底に入れておいた、1リットルのペットボトルを出そうとしたのです。

すると、何か軽く乾いたものに触れました。
この感触。
かさかさと鳴るビニール。
私の胸は躍ります。
「あった、あったぞ! 昼めしだ!」
昼めしの入ったビニール袋が、ペットボトルの下敷きにぺしゃんこになっていました。
おにぎりは無残にもフリスビーのように投げやすい形に成り果てています。
それでも、その愛おしさ、ありがたさといったら。
我々は無事、湯を沸かし、それぞれ一人分の昼めしにありつけたのでした。

私は今日、海の日に、そんな山のことを思い出し、口ずさむのです。

友(の心は)は広いな 大きいな
飯はうまいし パシフィズム

さざ波の音はざわめきでしょうか。


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