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駄文#14 秋めいて、恥。

こんにちは。抽斗の釘です。

前回からしばらく間が空きました。
つまり、それほど制作に難航しております。難儀しています。
そしてこうやって久しぶりに駄文を書いているのは、
決してその難航から抜け出せたというわけではなく。
気晴らしともならない逃げ、いわば工夫でございます。
上手くいかなければとにかく手を動かす、動く、逃げる、休む、投げる。
それもこれも制作のため。工夫です。

ということで、ずいぶん気候は秋めいて参りました。
そこで飽きもせず耳に入るは云々の秋。
私の場合は体を動かす趣味はありませんので、やはり読書の秋、芸術の秋となるでしょうか。
何か作っていると、それが行き詰まるとき、どうして初心に帰るという方法へと頼りがちになります。
それもいわば現状からの逃げ。進むための工夫と言えるのではないでしょうか。

初心。私が読書いいな、と思い始めたのは高校生のころ。
学校の図書館にはソファがありましたから、そこでごろごろ昼寝をするのが日課になっておりました。
が、やはり図書館やほかの生徒からすると迷惑。邪魔です。
その時、司書の先生に寝るなと叱られ、
返す言葉で何か面白い本はないかと聞いたのが始まりでした。
それから次第に自分でも本を買うようになり、しかし小遣いには限度がありますから、文庫本を買い求め、尻ポケットにしまって携帯するというのが、恥ずかしながら格好良いと思っていたり。

思春期は色々こじらせるものですから、特に芥川龍之介の小説には心酔し、自分なりにただ読むという行為を越えて楽しみを模索しました。

読書と同時に、制作するということにも楽しみを見出した時期。
高校の選択授業では美術を選択し、多くは自由に作ってよいとのこと。
学校の画材であることにかこつけ、ずいぶん好き勝手に遊びました。

がらくたが出来上がれば、次に何を作ろうと想像を膨らます日々のなか。
ひとつ、本を風呂に沈めたらどうなるだろうという衝動が起こります。
そこでダイソーの本売り場で100円本を買い、その日の風呂に、自分と共に湯に沈めてみました。
小説はもちろん芥川龍之介「侏儒の言葉」
湯につけるとぶくぶくと気泡を上げながら沈んでいきます。
そして湯の中で蝶のようにページが広がると、
それは私の手の動きに合わせてふわふわと羽ばたきました。
しばらくそうやって遊んでから、湯船から引き揚げます。
もちろん、ぐっしょりとへたって、湯葉のようにぐしょぐしょします。
そして、とうぜん、それだけでした。他に何か起こりようがありません。

予想通りの結果でしたから、私はどこか満足いきませんでした。
他にもっと遊べるはずです。
何せ芥川ですから。

私はそれから、「侏儒の言葉」を物干しで乾かしました。
とうぜん、パリパリになって、ページは所々張り付いて、それを剥がせばバリバリと音が鳴ります。
中身は意外と無事に読めるものでした。

しかしそれでもまだ満足ができない私は、
それを学校に持っていき、美術の材料にしようと考えました。

美術の先生に許可を取り、目を借りながら校庭でそれを燃やします。
消し炭になってしまっては何か分からなくなりますから、ほどほどに、3分の1ほど燃えたところで、踏みしだいて火を消しました。

そしてそれをキャンバスに置き、
無数の釘で打ち付けて貼り付けにします。

なんというこじらせ具合でしょうか。
書いていて自分でも赤面します。

作品はそれで完成としました。
タイトルは忘れましたし、それがどこでどうなったかは今ではわかりません。

本をそんな扱いにしたことが、あの司書の先生にばれたら悲しまれるでしょう。また、資源の無駄遣いも甚だしい限り。また芥川ファンがあれを見れば、不快に思うことは間違いないでしょう。
そんなふうに、欲望の赴くままに作り上げることは、果たして芸術といえるのでしょうか。
あのとき出来上がって目にしたものは、やはり今でもただのがらくたのように思います。

月日が流れてそんなことを思い出すと、あれが芸術や文化に対するコンプレックスの表れのように思います。
決してすっきりとしない、思春期の心情の発露。
それを代弁し、居場所を与えてくれたのが文学ですが、
しかし、それそのものにはなれない自分。
未熟な心はそこに暴力をなしても受け止めてくれると、
許してくれると勘違いしたのでしょう。

甘ったれですね。
今できる制作が、あのようなものにならないことを祈りながら。

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