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ひきこもりの弟 #03 母のこと

noteをはじめてみてわかった。やはり家族のことを文章に書き起こすのはキツイ。なぜか、涙がでてくる。でもはじめてしまったからには続けるしかない。母について書くことは苦しい。自分が同じDNAであることを直視することになるからだ。

母は相当な潔癖症だ。家はいつでもホコリ一つなく、様々なルールが存在している。帰省すれば、必ずスリッパを履かされる。靴下の裏で家を掃除するんじゃない、冷え性にも気をつけなさい。ちょっと裸足で歩けば、風邪をひくよ!と声を上げる。トイレが汚いことはありえない。
バスマットは各自あり、使ったら必ず所定のハンガーにかけなければならない。水虫防止だ。

ご飯は野菜も多くバランスの取れた食事だ。おかずも数点ある、和食、洋食、中華なんでも美味しい。テレビや本のレシピを自分で書き起こし、何回もやって自分のモノにする。こだわりが強い。美味しいショートケーキを作るために毎日のようにホールのケーキを作って食べて卵アレルギーになったほどだ。
何十年もこだわってきた家のカレーは、若い頃に食べて忘れられない喫茶店のカレーを再現することを目指していると聞いたときは驚いた。
ランチョンマットは必ず敷くし、家でもナイフとフォークを使ってステーキを食べた。従姉妹は私の母とスーパーに行くと、かごにボンボンと食料品を入れていくのがすごいと言っていた。

母は、キレイな若い良い母親で居たかった人だと思う。ファッションが好きで身なりや化粧品にはとても気を遣ったしお金を使っていた。母は美容部員だったが、建設系の会社に転職し父と再婚し、私達が産まれた。父は仕事のできるハンサムな人だと感じたようだった。私がよく誰々ちゃんのお母さんはもっと若いといったからかもしれないが、一本200円もするコラーゲンを毎日飲んでいた。
母は、あなた達を産んだあとも、働いて外にもっと出たかったという。どうやら、子供が生まれるときに、キミは働きに出なくていいから家庭を守りなさいという父だったようだ。
子育て以外のことも楽しんでいるように見えていた。冬になれば友人と週の半分はナイタースキーに行っていたし、タッパウェアの売り子になって頑張っていた頃もある。だから私はマルチ商法もネズミ講も大嫌いだ。

勉強を頑張るように言われたことはあまりない。こどもチャレンジをとってそれをやっていただけだった。私も弟もピアノとスキーは3歳から始めた。母はピアノをやりたかったけど買ってもらえなかったから、自分の子供にだけはやらせたかったそうだ。母は私たちに興味があったのか、なかったのかわからない。過干渉で身なりや行動に口うるさい人だったけれど、私達に本質的な何を教えてくれたのかと言われればわからない。

精神的にはすごく弱い人だ。感情のコントロールがまず、できない。
ヒステリックを起こすように私たちにキレた。二世帯住宅の祖母の部屋のドアを掃除機で殴っていた。そんな母親の感情を逆撫でするように、私はばあちゃんの部屋を基地のように使っていた。父は祖母を大切にしたし毎週スーパーにつれて行った。それが更に母を苛つかせた。祖母が亡くなった時悲しかったのと同時にホッとしたことを今でも覚えている。

親戚付き合いはとても下手だ。母はゼロヒャクの女だ。言葉を文字通りに受け取る。そして被害者意識がかなり強い。嫌味を言われても言い返さないで、頭の中で反芻して具合が悪くなっている。何年も根に持ち、呪いをかけ、恨み、関わりを避ける。
だから私は従姉妹と連絡を取らないでくれと母に言われている。面倒だから取っていない。ひきこもりの弟のことを言われるもの嫌なんだろう。

母の精神的な弱さは身体に出る。偏頭痛と嘔吐が何日か続く。バファリンがないと生きていけないという。中毒だ。一度首と身体が全く動かなくなって救急車を呼んだこともある。完全にストレス性のものだ。母方の祖母も精神病院に入院していたことがある。母の弟も自殺未遂を2回図った。
鬱が遺伝子レベルであることを否定できない。だから私は弟がひきこもりになったことも必然だと思っていた。
そして自分にもその遺伝子があることを自覚しているから、母みたいになりたくなくて乗り越えたくてヨーガをしている。自律神経失調になる原因を学ぶこと、知ることから始まる。身体から心。これに尽きる。
母にヨーガをすすめ何度かチャレンジしたが、落ち着いて坐ることができないようだ。そういう人は運動して疲れるまで身体を動かしたほうが良い。


父が歳をとり怒りっぽくなるのと対象的に母は怒ることは全くなくなった。それどころか
「死ぬのが怖い。私の人生はこれで良かったのだろうか。」そんなことをよく言っている。自分の人生をいつも後悔しているようだった。母は息子がひきこもりになったことを自分の責任だと感じながらも、やっぱり認めたくない、そんな感じだった。
弟がひきこもりだった間は、全く自分の人生を生きていなかったし、何も楽しめないといった。

不幸せなことに目を向けて、幸せなことには目を向けない。無いものに目を向けて、有るものの有り難さを感じていない。

気持ちはわかる、けれど、苦しみの原因を作り出しているのは、自分自身でしかない。人のせい、息子のせいにしても仕方がない。

私は母に伝え続た。まずは自分の精神の安定、そして弟の解決に向かって何ができるかを一つ一つやっていくのだと。
母はいつも泣いていた。

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