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ショパンジーの絶滅についての簡潔な報告

「あなたの紹介する音楽はどうして物故した人ばっかりなの?」 

出典 僕の彼女さんが毎度、古い録音の話ばかりする事を呆れて、言い放った言葉


昔、“ショパンジー”というそれはそれは美しいショパンの楽の音をピアノで奏でる蛮族ならぬ生物が棲息して居た。今では残念ながら絶滅してしまって見る影も形もないが、それでも確かに、昔、間違いなく、このかけがえのない世界に、確実に彼らは棲息していたのだった。

実は“ショパンジー”とは、ウラディーミル・ド・パハマンというピアニストの些かエキセントリックな言動や演奏してる姿が何処かチンパンジーを彷彿とさせるというので、当時の音楽評論家のジェームス・ハネカーがパハマンを揶揄した言い方である。

所でこう言ったら驚かれるだろうが、実は今あるショパン演奏は、ショパン自身が想定していた音楽とは別ものである。

では現代の名匠と謂われる人たちが奏でるショパン演奏はショパンではないのかという反論が来そうではある。

でも、そこから奏でられる音楽は、あくまでも現代の今を生きる我々の視点から読み解かれ解釈されたショパンなのであり、それはショパン自身が想定した美意識とは異なる。というのも、ショパンが生きていた頃と現代では、そもそも楽器も住んでる環境も、人々の感性もまるで違うものだからだ。住環境一つとってさえも、それこそ例えば安藤忠雄の剥き出しのコンクリートの壁のように装飾を省かれ機能性を重視したデザインに我々は囲まれて生活している。

楽器だって、今のスタインウェイやファツィオーリと、ショパンが弾いていたプレイエルでは音色からして全く違う。ショパンが生きていた時代と、モダニズムの洗礼が前提になっている2023年の世界に暮らす我々とが同じ環境、同じ感性である訳が無い。

なのに、なぜ自分は物故した演奏ばかりを好んで聴くのだろうか? 

この自然には、海のさざ波のように揺らぎがあるというのに、心の動きや揺らぎによって心臓の鼓動が早くなったり遅くなったりするというのに、どうして今の演奏家は楽譜に忠実であるなどといいながら、音楽の揺らぎを排除するのだろう? 自分はきっと自然に呼吸する音楽が好きなのだ。

ショパンの愛弟子でカロル・ミクリという人がいて、コチャルスキという幼い神童に自分がショパンから教わった事をすべて伝えたという逸話があり、我々は録音を介してだが、コチャルスキーの演奏を聴くことができる。このCDにも、コチャルスキーが録音したあまりにも有名な変ホ長調の夜想曲作品9-2が収録されている。

この意味でおそらくは、コチャルスキの演奏がショパン自身が想定してた演奏にもっとも近いのだろうけど、例えば、このCDで紹介されているスタイルで弾いたらコンクールで予選落ちするのでは無いだろうか?

現代という世知辛く無機的で殺伐とした社会で、ショパンジーたちの奏でる芸術が生き延びる余地はおそらくは無かったのではないのか? フジコ・ヘミングが日本のアカデミックな楽壇で異端扱いされている事なども、おそらくはそういう事なのではないかと思う。

そういう現代では失われた“ショパンジーたち”の生きた証を捜している夏目久生さんという方が、彼らが生きていた証をCDにして出している。ショパンの音楽を愛するものは、必ずこれを聴いておかないと、人生の大きな損失になると約束できる選りすぐりの名演だらけなのだ!

まずは、生前、ショパンジーと揶揄されたパハマンの演説から始まる。I'll play for you  D♭major walts Chopin…とかフランス語訛の英語で喋ってて、いつの間にか、フランス語でパガニーニがどうたら、スタッカートがこうたらといって、仔犬のワルツが始まる。このアンソロジーものには、ただでさえ難しいショパンの練習曲を左手だけで弾くようにゴドフスキーが編曲したものをパハマンが弾いたものも収録されている。

今どき、こんな風に弾いてるピアニストなんていない。ここに収められているどの演奏も、音楽がまるで生命を持っているかのように活きているかのように揺れている。ヴィクトール・ジルの嬰ヘ長調作品15-2の夜想曲とマリー・パンテの夜想曲ロ長調作品62-1...本当に溜息の出るように美しく、儚い…      

ブリリアントなフランク・アンダーソン・テイラーの名人芸に耳を傾け、次は、しっとりとしたリュシアン・ヴュルムザーによる別れのワルツ…マーク・ハンブルクは野村あらえびすから随分と酷評されているが、今、改めて聴くと、どこが我儘な演奏なのかさっぱりわからない素晴らしい演奏…

どれも珠玉の素晴らしい演奏だが、自分が特に印象深かったのがイレーヌ・シャーラーの弾く夜想曲ハ短調作品48-1だ。ショパンの慟哭や引き裂かれた心に寄り添うように、我々に語りかけている。

ウラディーミル・セルニコフによる、前奏曲嬰ハ短調作品45の、どこかスクリャービンさえも彷彿とさせる魔術のような薫り高いニュアンスの豊かさが印象的だ。

後半はアレンジしているものを紹介しているが、このアレンジもいずれも心憎いまでのものだ。

昔は、パラフレーズとかアレンジとかもよくやっていたし、原曲を元に名人芸を聴かせるというのもあったというのがよく分かる。パハマンの弾くゴドフスキーの編曲もといい、ヴィクトール・シェーラーによる蝶々の編曲といい、指が回るとかそういうのを超えて、それらが原曲とはまた違った光を当てている。原典主義とは一体何であろうか? 

モンポウの編曲によるワルツのモンポウらしいさり気ないアレンジが光っている。そして、ミハウォフスキの編曲による仔犬のワルツの編曲は若くして夭折したカロル・シュレーターの演奏。ブリリアントで鮮やかに冱えまくっている。勿論、この演奏をここで夏目さんが持ってきたのは、パハマンの仔犬のワルツとの対比を考えたものであろう。 

実はこの人のベートーヴェンの第4コンツェルトは本当に素晴らしい演奏だったりする。

締めくくりは、思わず踊りたくなるP・ピョーテル・グロスによる、楽しいのだけど、ちょっと切ないワルツ。
昔のウィンナ・ワルツとかには、こういう楽しいのだけど、哀感が漂うような演奏が多かったように思う。

昔、“ショパンジー”というそれはそれは美しいショパンの楽の音をピアノで奏でる蛮族ならぬ生物が棲息して居た。今では残念ながら絶滅してしまって見る影も形もないが、それでも確かに昔、間違いなくこのかけがえのない世界に確実に彼らは棲息していたのだった。このCDは彼らの生きた証でもある。

https://sakuraphon.net/items/64d5f74b6d819c003104414a





右や左の旦那様、人生オワコンの中年ニートのキモいオッサンにも、お恵みを.... 愛の手を... と書いてみたけど、こんな糞ニートをサポートする奇特な方などおりますまいが、それでも人生オワコンの引きこもりの糞ニート、出来るだけ面白い記事を書くように頑張ります....