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江戸時代


【江戸時代】 

  江戸時代は、260年間にわたり、比較的平和な時代が続きました。当時の日本の総人口は、約3200万です。身分別の割合は、百姓85%、武士7%、町人5%、公家・僧⒈5%でした。江戸時代の統治システムは、幕藩体制です。藩という行政区分によって、それぞれの領地を藩主が治める仕組みでした。藩の経済力は、石高で表されます。石(こく)とは、1人の人が1年間に食べる米の量です。当時は、米がお金の代わりでした。徳川幕府の石高は、400万石です。 

 【武士】 

  江戸時代の支配者階級は、武士でした。武士とは、苗字帯刀を許された者です。刀を持つことは、忠誠、自尊心、責任感の証でした。庶民が苗字をつけるようになったのは、明治時代からです。武士には、高い身分に伴う義務がありました。最も武士が、重要視した学問は儒教です。そのため損得勘定を嫌いました。損得勘定で考えると、命をかけて忠義を尽くすことなど出来なくなるからです。武士には、自制心が求められたので、贅沢は慎みました。切腹とは、不名誉を免れるための法制度であり、一つの儀式です。魂の宿る所である腹を開くことによって、自らの誠実さを証明しました。 

 【大名】 

  将軍と主従関係があり、一万石以上の領地を有する有力な武士を「大名」と言います。名前の由来は「大いに名の轟く者」で、多くの部下を有する武士のことです。全国に約200人位いました。大名は、親藩、譜代、外様の3種類に分かれます。親藩とは、徳川家一門か、その分家で大名になった者です。関ヶ原以前から徳川家に仕えている者を譜代といい、それ以降仕えた者は外様と言います。外様には、前田、島津、伊達、細川、黒田などの有力な大名がいました。

 将軍の直接の家臣には「旗本」「御家人」がいます。旗本も御家人も、石高が1万石未満の武士です。両者の違いは、将軍に謁見出来るかどうかです。旗本は、謁見出来ましたが、御家人は出来ませんでした。

 【武家諸法度】 

  二代将軍徳川秀忠は、武士や大名を統制する法令である「武家諸法度」発布しました。通称を「元和令」と言います。武家諸法度には、反乱防止の目的がありました。守るべき義務として、城の新規築城の禁止や修理の制限、または婚姻の許可などがあります。従わなかった罰は、領地の取り上げや、地位の剥奪です。この武家諸法度によって、全国の大名たちを従わせることに成功しました。 

 【参勤交代】 

  3代将軍徳川家光は、武家諸法度に「参勤交代」という新しい制度を加えます。参勤交代とは、幕府が決めた人数で、1年おきに大名が江戸に出仕することです。その際、妻と嫡子は、人質として江戸に残されました。これに従わないと領地は没収されます。参勤交代には、莫大な出費が伴います。そのため、藩の国力は低下しました。参勤交代には、各藩の国力を弱体化させる目的があったからです。大名が移動する時は、籠に乗りました。 

 【五街道】 

  江戸時代には、五街道が発展し、交通手段が整いました。五街道とは、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道です。五街道によって、江戸と全国が道で結ばれました。五街道は、参勤交代でも使用されます。交通が整備され、庶民も旅に出るようになりました。そのため各地に作られたのが、旅館の原型である「旅籠」です。 

 【百姓】 

  武士の生活は、百姓によって支えられています。百姓とは、漁業や林業を営む者を含む民衆一般のことです。農民は、新田を開発し、収穫量を増やすことに力を注ぎました。その農民を統制するために作られた法令が「慶安の御触書」です。江戸時代に開発された農具には、備中鍬、千歯こぎなどがあります。江戸時代には、地方の特産品の生産に力が注がれました。例えば、山梨のぶどうや和歌山のみかんなどです。


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