【インドの偉人】アインシュタインを超える天才? インドの天才数学者ラマヌジャン

インドの偉人と聞いて、多くの人が思い浮かべるのはガンディーだと思います。
でも実は、ガンディーと同じくらい有名な、インド生まれの天才数学者ラマヌジャンという人がいることをご存知でしょうか。

彼はほぼ独学で数学を勉強していたにも関わらず、数多くの公式や定理を発見しました。それらは他の数学者たちに「一体どのようにしてこんな式を生み出せたのか、全く理解できない」と言われるくらい、通常の論理の域を超越したものでした。

ラマヌジャンがいかにして天才的かつ直感的な発想を得たのかについては謎に包まれており、別名「インドの魔術師」とも呼ばれています。
歴史上の天才数学者の中でも、ラマヌジャンはかなり異色・異彩な存在なのです。

そのため「相対性理論はアインシュタインが発見しなくても数年以内に誰かが発見しただろうが、ラマヌジャンの見つけた公式は、彼が生まれていなかったら今もなお発見されていなかっただろう」と言われています。

私は数学が全くの素人なので、ここでは彼の残した公式や定理の素晴らしさを説明できません。
でも、ラマヌジャンは1920年に32歳の若さでこの世を去ったのですが、ちょうど今年が死後100周年となります。彼の数奇でダイナミックな人生にはとても心惹かれるものがあるので、書いてみました。

■ 生い立ち

ラマヌジャン(本名:シュリニヴァーサ・ラマヌジャン/Srinivasa Ramanujan)は1887年、南インドのタミル・ナードゥ州クンバコーナムで、貧しいバラモン階級の家庭に生まれました。
幼少期から母親により熱心なヒンドゥー教の宗教教育を受けていたため、彼自身も敬虔なヒンドゥー教徒に育ちました。

幼い頃から数学に興味を持ち、子どもの時にはすでに大学生の使う教科書の内容も理解していたと言われています。

15歳の時にジョージ・カーという数学教師の書いた、受験用の数学公式集と出会うのですが、これをきっかけに、数学に没頭するようになります。
Wikipedia: 「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」より

しかし、奨学金を得て大学に進学したものの、数学以外のことに興味が持てなかったため、他の科目の授業に出席しなくなってしまいました。
その結果なんと、落第続きで奨学金が打ち切られ、退学させられてしまいます。

大学中退後は港湾事務員の職に就き、独学で数学の勉強を続けました。

ラマヌジャンは自分の発見した公式や定理を何冊ものノートに記録していたのですが、それらは恐るべき質と量だったそうで、後に数学の研究者たちを驚愕させることになります。

■ イギリスへの手紙と、ハーディとの出会い

当時インドはイギリスの植民地下にありました。
インド国内ではラマヌジャンの研究について理解できる人がいなかったので、彼は宗主国イギリスの数学の知識人たちに見てもらうことにしました。
彼は自分の研究成果を手紙に書き、イギリスの数学研究者たちに送りました。

しかし、無名で学歴のない、しかも植民地下のインド人から届いた手紙など、最初は全く相手にしてもらえませんでした。

そんな中、ケンブリッジ大学の著名な数学研究者ハーディは、最初こそ半信半疑だったものの、読み進めていくうちに彼の才能に気づきます。ラマヌジャンの送った研究成果の中には、明らかな誤りや既に世に発表されているものも含まれてはいたものの、「自分が未だ見たことのない定理」「自分が証明に成功したがまだ世間に発表していない定理」がいくつか書かれていたのです。

こうしてハーディのおかげでラマヌジャンはケンブリッジ大学に招聘され、1914年に渡英しました。
当時のバラモン社会では海外渡航は禁じられていたので、ラマヌジャンの母親は猛烈に反対していたのですが、ある日枕元でナーマギリ女神(ヒンドゥー教のラクシュミー女神の別称)からイギリス行きの「お告げ」を聞き、彼の渡英を承諾しました。

こうしてめでたくイギリスに渡ったラマヌジャンですが、後に様々な苦労を経験することになります。

■ ハーディとの共同研究生活

ラマヌジャンは正当な高等教育を受けず、ほぼ独学で数学の知識を身に着けました。
そのため渡英した当時は、数学の知識が偏っており、数学を学ぶ学生なら誰でも知っている公式を知りませんでした。
また、彼は定理や公式を「証明すること」の概念をほとんど持っていなかったと言われています。

天才でありながらも、誰もが持っている常識的な知識や概念が備わっていない――彼はこの課題に直面することになります。

共同研究パートナーのハーディもそれを理解してなのか、証明の常識を押し付けようとせず、あえて自由に研究させることにしました。無理強いすることでラマヌジャンの独創性や直感性を損なうことを恐れたためです。

そのためラマヌジャンは毎日6つもの定理を発見してはハーディのところに持ってきて、ハーディが1日かけてその定理を証明する、という独特な方法で研究を重ねたそうです。
普通の学生が知っている定理を知らないのに、毎日6つも新しい定理を発見するって、天才過ぎて想像できませんね。
そしてそんな天才と毎日共同研究するハーディも、超人としか言えません。

しかし、イギリスで充実した研究生活を送るも、ハーディとの関係がうまくいかなくなってしまいます。

原因の1つとして、ハーディがラマヌジャンに対して感じていた嫉妬があったようです。
偉大な数学者でも1年にいくつかの発見、普通の数学者なら何年かにひとつの発見で十分なのですが、毎日いくつもの定理を発見してくるとなると、さすがのハーディもうらやましくなってしまったのでしょう。
また、ラマヌジャンの書いていた数式の大部分は、結果的には正しいものでしたが、いくつかの重要な部分では、本質的な間違いもありました。
しかし信心深い彼は、自分の数式はナーマギリ女神の教えだと固く信じていて、かたくなに間違いを認めようとしませんでした。そのため、「なぜ正しいのか」を突き詰めることを重要視していたハーディと意見が合わなかったのです。
参考:黒川信重(2019)「ラマヌジャン探検」株式会社岩波書店

これだけ見ると、ラマヌジャンとハーディの関係がこじれてしまったように見えますが、生まれた国や環境が全く異なる2人が、数学をめぐって対立してしまうのは当然のことです。

実際、ハーディはラマヌジャンのことを数学者として最も高く評価し、尊敬していました。

その証拠に、彼は数学者に100点満点で点数づけをする際、自分自身には20点しかつけなかったのに対し、ラマヌジャンには100点を与えています。

■ 第一次世界大戦とインドへの帰国

そんな中、当時のイギリスは第一次世界大戦下にありました。

ラマヌジャンは敬虔な菜食主義者でしたが、戦時中のため十分な野菜を確保できず、栄養不足になってしまいます。
また、燃料がないため暖をとることが難しく、温暖気候の南インド育ちだった彼にとって、イギリスの寒さは耐えがたいものでした。

それに加えて、イギリス人から受ける差別や嘲笑にも精神的に苦しめられていたと思います。華やかに見える名門大学でも、実際はプライドや嫉妬、派閥、戦下でのフラストレーションが蔓延し、植民地インドの田舎町からやって来た学歴のないインド人への差別意識は確実にあったでしょう。

そういった厳しい環境から、ラマヌジャンは病気を患い、療養生活を強いられます。

イギリスでの生活に馴染めなかったラマヌジャンは、療養後に母国インドへ戻ることを決意します。
しかし帰途の途中に病気が再発し、帰国した翌年、若くしてこの世を去ってしまいます。当時32歳、あまりに早すぎる死でした。

■ ラマヌジャンの定理は神様からの贈り物

概してラマヌジャンは論理の積み重ねではなく、直感で定理を発見した人物、と言われています。
彼自身も、なぜそれを思いついたのかと聞かれても明確に答えられなかったそうで、文字通り「なんとなく勝手に出てきた」「自然と頭の中に浮かんできた」というレベルだったそうです。

なかなかイメージできませんが、例えれば数学の問題を解いている時、証明やプロセスを全部すっ飛ばして、解だけがひらめく、といった感覚でしょうか。

ラマヌジャンが書き留めていた定理や数式のノートにも、「結果」が書いてあるだけで、証明らしきものはほとんど記載されていなかったそうです。

彼自身は自分の稀有な発想力について、「ナーマギリ女神が数式を教えてくれた」と納得していました。
彼には、普通の人間には見えない、何か特別な数字が見えていたのかも知れません。神様しか見ることのできない数字が。
まさしく、ラマヌジャンは「神様に選ばれた天才」なのだと言えます。

■ 現代にも影響を与えるラマヌジャンの定理

ラマヌジャンの没後100年がたった今でも、彼の定理は多くの数学者たちを魅了し続けています。

1997年、彼の死後77年が経ってから、ようやく彼のノートに書かれていた3,000以上もの定理が全て証明されました。

それでも、その定理の意味づけや応用までにはほとんど至っていないそうです。今も優秀な数学者たちが、100年前の数式に挑み続けています。

ラマヌジャンの人生は、時代に翻弄され苦難に満ちたものではありましたが、文字通り、数学を愛し、数学に生きた人生でしたね。

2016年に公開されたイギリス映画『奇蹟がくれた数式』(原題: The man who knew infinity)で、ラマヌジャンの数学者としての人生が描かれています。
数学的要素もさることながら、世界大戦を背景に、ハーディとの絆や、祖国インドに残してきた妻との愛がストーリーの軸となっています。また、有名な逸話「タクシー数」のエピソードもちゃんと取り入れられています。

彼の残した定理は今、宇宙学やがん研究などの分野において影響を与えています。今後も、色々な分野で応用されるようになるのかも知れません。

もし彼が、正当な数学の教育を受けていたら。
もし彼が、あと30年、長く生きていたら。
もしかしたら、今もまだ発見されていない定理を発見し、私たちの生活は大きく変わっていたかも知れません。

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