暇森 匠(同人暇森の会2015~)

88年生。生きねば。亜インテリ。人文系評論。私的研究。規律訓練。神代紀一書論(早大修士…

暇森 匠(同人暇森の会2015~)

88年生。生きねば。亜インテリ。人文系評論。私的研究。規律訓練。神代紀一書論(早大修士号)。仕事着にコムデギャルソン。実存の空虚・疎外・生の哀悼。新宿伊勢丹。筋トレ。ジョグ。躁鬱。愛煙。小4病。ミスチル。岡田斗司夫。泉まくら。ミツメ。きのこ帝国。赤い公園。 ノベンバ。

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積み重ね(努力)と積み残し(後悔)の関係。

 積み重ねと積み残しの関係の話。日々の積み重ねは大切だと人は言う。継続的な努力なんて無意味じゃないか、とニヒリスティックに訳知り顔で言う人もいる。  あのときにああしておけば良かったと後悔する人がいる。日々の積み残しが今になって自分に後悔となって現れる。そのときの怒りや虚しさは耐えがたいものだ。  しかし、何もやりたくない、怠惰でいさせてくれ、とも思う。その日々の積み残しの復讐と日々の積み重ねのための少しずつの我慢。天秤にかけてどちらがより嫌なのだろうかと考えてみる。  健全

    • 社会人になってからの調べものとかお勉強の難しさ。

       洋楽のド名盤を聴こうとか思ってローリングストーンのオールタイムベストのランキングとか観ていて名画もランキングはあるし近代文学、現代文学の名作とかもブックガイドとかたくさんあるけれども、戦後の文芸批評とか日本の思想系の本で、分かりやすいランキングとかブックリストってあるのかしら。  西洋哲学もそれなりにブックガイドというか、そういうのはありそうだけれど、一応私が日本文学の学部に居たから何となく空気で分かるのはあるけれども、ゲンロンとかやっていて、批評空間の人も必読書150とか

      • 趣味を持てない人の仕組み。

         やるべき仕事が高校生のときは受験勉強だとする。そうすると大学に入ってやるべき仕事がそれまでとは変わってしまうと、やることがなくなって退屈を覚える。大学生のときに自分のやるべき仕事をやっていて、社会人になってやるべき仕事が変わってしまう。  趣味というものを持つ、趣味は英語でホビーでありライフワークに近い言葉だと思うが、ことの練習はどこかで学習するものではない。習慣みたいなものだから高校生までに学習したものを惰性で大人になっても続けるのかと思う。学習し直す契機などない。  社

        • 普段のルーティンと知的なルーティン探し。

           やっとこさ、本を読む気分が醸成されてきた気がする。村上春樹の長編を5作とか飽きるまで読んで友人たちとのやり取りのおかげかしら。  文化消費は心身ともに健康でないとなかなか熱中できない。だから良く寝て良く食べて良く運動して、という習慣を間違えてはいけないと思う。こういうことを言うと息苦しい物言いだけれど。  今月の始めから未来少年コナンをポツポツ観ているが宮崎駿のなかでもかなり上の完成度の作品なのね。小学生のときに一部を観ていたが、通しては観たことなかったから。  寝る前に

        積み重ね(努力)と積み残し(後悔)の関係。

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        • 同人誌 暇森の会
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        記事

          大学生になってからと社会人になってからの運動の習慣化。

           文化消費は心身ともに健康でないとなかなか熱中できない。だから良く寝て良く食べて良く運動して、という習慣を間違えてはいけないと思う。こういうことを言うと息苦しい物言いだけれど。  20代の頃の大学生になってからの運動は独り暮らしの頃は腹筋と腕立て伏せと背筋と30キロのダンベルをやっていましたが、大学院の26・27才の頃は実家から湘南新宿ラインで早稲田まで通っていたので2日に1度は1.5キロを走り、走らない日は上述の筋トレをしていたのを思い出した。  社会人になってからは、最初

          大学生になってからと社会人になってからの運動の習慣化。

          自分の行動を変えてくれた他人の言葉。

           私は元々思い上がる、あるいは誇大妄想のようなものがなければ、行動は起こさないと思っています。ただ、そういった誇大妄想に近いものに対して、良く思わない人たちも居て、何というか、敵意のような発言というのをしばしば受け取ってしまうわけです。  ただ、当時は何となくそういった言葉に気持ちが塞がってしまうことも多かったのですが、時間が経過しその言葉を思い出すことが平気になってくると、そういった言葉たちが自分の行動を変える指針のようなものになることがあります。  たとえば、大学一年のと

          自分の行動を変えてくれた他人の言葉。

          私の鬱抜けと過ぎ去ってしまった人たちについて。

           過ぎ去ってしまった人たちというものが存在する。たとえば、高校生の頃には毎日のように仲良く話していて、学校が終わるといつも一緒に過ごしていた人。大学へと進み、別々の環境に行き、会うこともなくなってしまう。久しぶりに会って話しでも、と思い連絡を取ってみるが、相手の反応は芳しくない。適当に世間話をするとかでもない。  相手にとって私は生涯を通して付き合っていく相手ではなかった。そういうことなのだと思った。8年間に渡り20代のほとんどを一緒に過ごしたパートナーと別れたときのこと。私

          私の鬱抜けと過ぎ去ってしまった人たちについて。

          三十二才にして無感動になる。

           三十二にして二十代の頃の感動は消えたが、このままではいけないと思った。ハングリー精神と言われて、飢餓感というのは貧乏人が持つもので、お金持ちになりたいというのが一昔前のセオリーだった。それも私が生まれる前の話だ。  我々ゆとり世代というのはほとんど生まれてから大人になるまで不況という状況のなかに暮らしてきた。別に貧乏な生まれでもなかったが、不況という言葉はテレビから聞こえてきて耳にタコができるほど聞かされてきた。  最近、三十二になってから意識するようになったのは体の老いで

          三十二才にして無感動になる。