私の鬱抜けと過ぎ去ってしまった人たちについて。

 過ぎ去ってしまった人たちというものが存在する。たとえば、高校生の頃には毎日のように仲良く話していて、学校が終わるといつも一緒に過ごしていた人。大学へと進み、別々の環境に行き、会うこともなくなってしまう。久しぶりに会って話しでも、と思い連絡を取ってみるが、相手の反応は芳しくない。適当に世間話をするとかでもない。
 相手にとって私は生涯を通して付き合っていく相手ではなかった。そういうことなのだと思った。8年間に渡り20代のほとんどを一緒に過ごしたパートナーと別れたときのこと。私はこの人と結婚して生涯に渡って関わっていくと思っていた人。別れてしまったあとに、私は本当に女々しく、何度も復縁を願ったが音信不通となり今に至る。4年も経った。
 村上春樹の小説のなかに出てくる比喩のなかで入口と出口のある部屋というものがある。そこは2度と出ていったら入れない場所なのだと。今になって分かること。1度入ってきた人たちのほとんどは必ず出ていってしまう。ただ思い出だけを残していく。孤独を感じるときにそれが私の身を焼くような思いがすること。
 ただ、およそ10年間に渡って、環境を共有しなくなってからも月に1度は会う仲間が私にはふたり居る。半年に1度会う仲間なら、あと4、5人ほど居る。それは私を勇気づける事実だ。そういった間柄が私の心をどれだけ温めてくれるかは分からない。
 私は家庭も持たず、特定のパートナーも見つけられずに社会人生活の5年目を迎える。寂しさはいつでもある。ただ、交際していたパートナーが居たときですら、私の鬱が酷かったときはその相手に何も言わずにひと月ほど失踪したことがあった。交際して3年目だった。学部3年生の終わりだった。そのときは自らの死を考えて続けていた。けっきょく帰ってはきた。
 そして家族にもそのパートナーにも謝り、残りの5年、その最初の1年間は混乱の1年間だった。私は逃げる前の自分と何ら変わらなかった。
 変化はその次の4年間で起こった。私は別人のようになり鬱も最も酷い頃に比べたら小康状態に至り、パートナーと時間を過ごした。その4年間のうち、最初の2年間は卒業論文に熱中した。次の2年間は修士論文に自らの全てを捧げて何とか完成させることによって何とか立ち直ったのだと思う。
 その研究と並行して、私は専門ではない分野における学者の書いた本との付き合い方をあらためて考えていた。とにかく、濫読することを自らに課した。意味はないにせよ、今は普段の生活のなかではこれだけだと言い聞かせた。とにかく最先端から古典的なものまでを読むのだ。そして音楽、とにかく最先端のものに触れること、それを自らに課した。そして旅行。車での旅行、長い長いドライブをするために私は2日に1度は1.5キロほど走ることにした。腹筋と腕立て伏せ、そして30キロのダンベルの上げ下げを毎日行なうようにした。何とか、趣味に没頭すること、何とか大学院まで出ること、社会人になることを通じてそれなりにまともになっていった気がする。
 他人の話に耳を傾けるようになったのもその頃からだと思う。何とか他者とのラポールを作ること。情緒的な安定を目指し、他者に対して衝動的に攻撃性を持たずに関わること。そうやって何とか生活というものを保ってきたのだと思う。
 しかし社会人になり、私はまた酷い鬱になった。今度はパートナーからの音信不通状態になった。その鬱から立ち直るまではけっきょくひとりだった。また数年がかかったのだ。仕事のおかげで、今度もその内的な危機をやり過ごすことが出来たが、パートナーとの関係はそこで終わった。考えてみれば私の青春はそのときに終ったのたと思った。壮年期に入ったのだと受け入れられるようになったのは最近のことだ。