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鳥文斎栄之展講演のメモ帳

本日千葉市美術館で行われた市民美術講座に行ってきました。

今回は浮世絵師・鳥文斎栄之の生涯画業について、学芸員の染谷美穂先生が一時間半に渡って発表していただきました。

たぶん鳥文斎栄之については知りたい方もいらっしゃると思うので、この場をお借りして、講演の内容をシェアさせていただきたいと思います。

かなり駆け足での説明でしたし、メモに必死で書き留めたものを起こしているので、間違った情報も多々あるかと思いますがご了承ください。

先行研究について

これまでの展覧会は主に二つしかない。まず「栄之・長喜・北斎」展(パリ・1913)について。ここではYEISHI表記がなされている。しかも歌麿より年下で影響下にあったと書かれているなど、誤解も生じている。ちなみに「ジャポニズム」と今は称されるが、フランス語は「ジャポニム」であり、千葉市美では後者に統一している。栄之の版画は100点ほどあり、どれも日本人女性らしいイメージである。愛好家であるフランス人の作家ゴンクールは「妖精のような美人像」と栄之を評す。そしてもう一つは「歌麿と栄之」展(太田記念美術館・2006)であり、「栄之」の名を冠した日本初の展覧会である。

生涯について

 栄之は10代のころ中奥(表御殿と大奥の間)で活動していた。34歳で家督を譲って画業三昧生活に。よく「殿様絵師」などと呼ばれてきた。出自は藤原氏支流の首藤氏末裔、祖父は勘定奉行。父・時行は御小姓組で、36歳で亡くなる。栄之は17で家督を継ぐ。母は某氏のみ、正妻ではないとおもわれる。妻は大岡忠主の娘、子は娘三人、養子あり。
 『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』という史料が重要文献。そこでは栄之が布衣(ほい)を着ることが許されたとある(将軍に謁見する時の服装)。『古画備考』には将軍から気に入られ、絵具を持ってくる役になったとある。栄之の号は将軍に賜ったことに由来するかもしれない。寄合に任ぜられた後は比較的自由だった。
 寄合時代から浮世絵を始めていた可能性があるがそれを証明する史料はない。天明期には栄之の錦絵が人気となっていた。寛政元年に隠居した。将軍に絵具を持ってくる役を解かれたのは病気のためとされるが、表面上のもの。寛政10年を境に錦絵制作を止める。寛政12年に妙法院宮の命で作品が上皇の文庫に収められる。「天覧」印を押すほどに誇りに思っていた。『大成武鑑』(1782)に「細田弥三郎」(栄之のこと)とあり。狩野派御用絵師に学んだ成果が肉筆画には表れている。師匠の狩野栄川院は木挽町狩野(狩野派の最高峰)。
 最初は浜町に住す(日本橋久松町)。高名な山伏の井戸(歯痛に効く)の近くに屋敷があった。国学者の賀茂真淵が敷地内に小屋を建て住んでいた(染谷氏私見では幼少期の栄之に影響を与えたか)。享和2年には本所割下水へ細田家は移った。『諸家人名』では「本絵師」として小川町に住す。小川町の源兵衛敷地内に晩年は住む。養子の細田和三郎と同居していた。文政年間に74で没したのは過去帳から確認できる。

活躍について

 天明5年に春画刊行とあるが、確認はできない。天明7年に黄表紙『三千歳成元蟒蛇』が初出だが、狩野派学習の成果が出ており、迫力がある。天明7〜8年の『其由来実徳寺門』蔦屋重三郎が版元で興味をそそられる、北尾重政の画風との共通点もある(版元が同じだと彫り癖も一緒になる)。版画は天明6〜7年の《角玉屋うち紫 はつねしらべ》が最初になる。天明期の作風は鳥居清長風であり、眉の端と端、顎とが二等辺三角形で結べる。栄之の方が鼻が高い。凛とした強さのある女性像は清長とは異なる。
 栄之は細版や役者絵といった最初期に絵師が必ずやらされる絵無しでデビューした点で特異。初期から大版錦絵をやっており、版元の西村屋与八のプロデュース、アイデアのもと武家出身を売りにしていた。
 紅嫌いとは、墨色や黄色、紫を主に用いており、栄之のものは同時代の絵師でも最多となる。
 5枚続の版画もあり、いわゆる入金もの(スポンサーを募った上で制作)は売れる前提でなければ作れない。天明8年ごろが多いようだ。
モチーフ・ポージングは清長から学んでおり、群像や風景は参考にしている。ただし人物はさらに女性的になっている。
 早くから門人がおり、孟城斎五郷と言う。同じく武家の出身と思われ、趣味で描いていたか。《中洲の扇屋仮宅》には「五きやう様」と書かれた封筒が。
 天明9年の「風流七小町」《あらひ》はボストン美術館の蔵で、オークションカタログにも掲載。

寛政年間の画業

 「青楼万歳俄」では目尻の吊り上がった美人が見られる。
 寛政4年には面長の栄之美人の画風が確立された。
 《品川の酒宴》では品川の開放的雰囲気に満ちており、明るい色調、丁寧な作り込みが特徴。
 《善玉悪玉青楼遊興》では男芸者の名が書かれる。「善玉悪玉」は黄表紙を錦絵化している。「松風」「浮舟」という遊女の名があることから、寛政5年の作と分かる。
 「風流やつし源氏」《松風》は古典的主題であり、雲の部分に真鍮が使用されている。
 寛政5年には独自の美人像を確立しており、歌麿大首絵の確立と同時期である。
 《扇屋内蓬莱仙》では喜多川歌麿が栄之から影響されているのが分かる。つまり栄之の「青楼芸者撰」が歌麿の「青楼十二時」に影響を与えたと言うこと。
 清長は健康体の女性を描いた。栄之はさらに女性らしい表現を志向した。
 栄之はデビューから大版錦絵を手がけ、寛政4、5年には独自の様式を確立した。
 鉱物系の絵具を多用しており、上流階級向けだと伺える。

「風流やつし源氏」シリーズの魅力

 《朝顔》は紅嫌いを用いている。絵では当世風風俗を用いながら源氏を描く「やつし」を用いる。喪に服す三人の女性と朝顔宮に手紙を書く源氏が描かれる。
 《須磨》は2枚続であるが、3枚続の可能性もある。複数の人物を画面の集約によって収める。異時同図も用いられる。これらはやまと絵が得意としている。栄之は松の描写などで伝統的モチーフを参照した。
 《松風》では、着物の文様が話の内容や物語の要素を説明している。沢山の女性と一人の男性という構図は吉原を想定している。読み解きの必要がある作品は知識人をも唸らせた。松風という題は先の実在する遊女との関連を思わせる。

肉筆画への転向へ

 寛政後期の「青楼芸者撰」は色気を売りにした歌麿とは全く違う世界だ。感情を露わにせず穏やかな笑みを浮かべるのは、武家階級の美徳だろうか。
 「青楼美撰合」《扇屋滝川》では刷りの背景に雲母を使用しており、別版では写楽も用いた黒雲母が使われている。
 《風流略六芸》では上流女性のたしなみを表現しており、庶民からしたらセレブの世界を覗き見した気分?労力がかかる黄つぶしも多い。紙は厚くて大きい、上質なものを使用している。全身坐像であり、武家の子女を描くのに精通している。エンボス加工のような、刷りに凝ったものが多い。
 空刷りという、絵具を用いずに柄だけで凹凸をつける技法の錦絵もある。打掛部分に雲母を用いたものもあり、ピンク色が美しい。
 栄之は大首絵も描いた。歌麿に拮抗したい版元の意向か。歌麿の版元である蔦重の死後、規制が緩和されたのかも。
 寛政10年には日本に交易の目的で来たアメリカ人が歌麿と栄之作品をアメリカへ持ち帰った。栄之のものは《見立筒井筒》(寛政5年、メトロポリタン美術館蔵)であり、日本風俗理解の一助になると考えたか。
 栄之の養子は狂歌師としても活動していたように、狂歌が天明期にはやっており、栄之も取り入れた。狂歌本『柳の糸』では挿絵を担当した。大田南畝とは交流があり、南畝は「栄之は美人画名人」と評していた。彼は栄之作品に賛を多く寄せた。栄之は南畝の肖像を描いており、猫背・赤鼻といった特徴を捉えている。
 栄之60歳祝いの引札では栄之が席上揮毫し、文化人とも交流したさまが伺える。

肉筆画について(スライド中心)

 栄之の肉筆美人画では清らかで洗練された、品位ある女性が描かれる。
 《御殿山花見図》は紫色の着物が上品だ。
 《遊女と禿図》は《青楼》ものと図柄が重複する。
 《朝顔美人図》は最も美しい美人画と言える。夕には萎れる朝顔の花と乱れ髪のような蔦が描かれる。伊勢物語を詠んだ短冊が後から貼り付けられている。浮世絵を愛した平戸松浦家に伝来した。
 《円窓九美人図》はMOA美術館蔵、絵具の発色が大変良い。寛政中期ごろの作品。
 《唄姫図》《美人立姿図》は寛政中期の作品。
 《桜下双鶏図》は背景が少なく濃彩。
 《蚊帳美人図》《胡蝶の夢》では狩野派学習の成果が発揮されている。
 《吉原通い図巻》は上皇お買い上げの件でも分かる通り、図巻技量を認められての発注だったか。
 「関ヶ原合戦図絵巻」は師の栄川院が原本ながら未発見。長谷川雪旦も模写しているが、栄之作品は柔らかなタッチかつ淡彩で描くことで空気感を出す。
 《見立三酸図》は文政期作品で質の良い絵具を使う。
 

隅田川を描いた作品について

 《吉野丸舟遊び図》は画面に対して並行に舟が描かれるのみだが、《新大橋橋下の涼み舟》では風景の描き込みやスケール感など、進歩が見られる。
 《川一丸船遊び》では逆に背景を排している。
 《隅田川両岸一覧図》は人物をほぼ描かず風景が中心。水色がきれいで清々しい。
 《隅田川風物図屏風》(文政9年)は最晩年作で、大画面ながら細かく描かれており、武家に馴染みがある場所も描いている。

新出の栄之作品のこと

 《三囲月見図》(個人蔵)は展覧会直前に見つかったもので、小品ながら完成度が高い。隅田川の秋の夜の空気感が伝わる。このタイミングでの発見には縁を感じた。
 《仁徳帝高津宮図》(文政4年頃)は旗本の金森家が栄之に依頼したもので、大部分が淡彩で描かれる。山々の空気感まで描かれる。
 《三囲扇面図》(文化10年)は大火で吉原が仮宅の時に描かれた。
 《吉原十二時画帖》(文政期)では吉原の日常が分かる。
 《貴人春画巻》は文化8年の年紀あり貴重。季節に則る春画のオーソドックスではなく、季節に関係なく描く。濃彩画風でロマンチック。
 《和漢美人競艶図屏風》では伝統的なモチーフを超えた独創性が発揮されている。当時では珍しい中国風は舶来版本を参考にした可能性がある。
 

最後に、余談。染谷先生に直接お話しさせていただいて、「今後の鳥文斎栄之研究の課題」についてもお伺いしました。まず鳥文斎栄之の肉筆は贋作が相当多いので、真贋を分けつつ新たな作品を探したいとのこと。また、栄之の弟子たちについてもほとんどと言っていいほど何もわかっていないそうなので、そちらはこれからとおっしゃっていました。先生は栄之の弟子では栄里について言及されていましたが、彼も武家の出身で間違いなさそうということでした。
あとこれは私的な話なのですが、先生とは大学時代同じ授業でご一緒したことがあり、10年以上ぶりの再会でした。同窓の人間として美術史に残る偉大な研究を若くして成し遂げた染谷先生を心から尊敬します。本日はありがとうございました。

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